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相手の言葉に染まる(錯覚について・04)

 古井由吉の小説では相手の言葉に染まっていくという身振りがよく出てきます。相手の話を聞きながら、その話に自分を同期し、さらには同化していくのです。そうした過程が快感として描かれているのが特徴的だと言えます。

 以下は、古井由吉の『妻隠つまごみ』(『杳子・妻隠』新潮文庫・所収)からの一節です。

彼はふいに、見まちがえられていることに奇妙な喜びを覚えはじめた。自分のさまざまな有り得る分身が世間にはぐれて渡り歩いているのを見るような気持ちがした。そればかりか、声をかけてくれる人なら誰にでもすがりつきたくなるような不安さえ、ほのかに感じはじめた。
(p.178)

 今回はこの引用文だけに絞って話を進めます。

 以下のリンクに、「見る「古井由吉」と「聞く「古井由吉」」について書いた記事に詳しい説明がありますので、興味のある方はご覧ください。

     *

 かいつまんで図式的に説明すると以下のようになります。

*見る・見える
・見えているようで見えていない。
・見ることで世界に違和感(古井のよく用いる「異和感」でもかまいません)をいだく。
・見間違いが起きる。

*聞く・聞こえる 
・音や声を聞くことで周りの世界を違和感なく把握している気持ちになる。
・自分の出てくる他人の話を聞くことによって自分像を作り上げていく。

 古井由吉の小説に特徴的な以上の身振りは『妻隠』でも出てきます。

     *

 もう一度引用します。

彼はふいに、見まちがえられていることに奇妙な喜びを覚えはじめた。自分のさまざまな有り得る分身が世間にはぐれて渡り歩いているのを見るような気持ちがした。そればかりか、声をかけてくれる人なら誰にでもすがりつきたくなるような不安さえ、ほのかに感じはじめた。
(p.178)

「彼」は相手を見間違え、相手にも見間違えられているが、見間違えている相手の話を聞いているうちに、その話に染まっていき、自分が染まっていくことに快感を感じている。これが大切な点です。

 こうした展開になるのは、相手の話に自分が登場しているからなのです。自分を見間違えている相手の話の中で描かれている自分を取っ掛かりにして、自分を作っていく――。この身振りに私は注目します。

「見間違える」というのは錯覚に他なりません。その見間違えに同調していくとすれば、それは錯覚に輪をかけるようなものでしょう。

 自分がその錯覚の「登場人物」であるどころか「主人公」だとします。これはわくわくするような経験ではないでしょうか。ただし、自分というものがよく分かっていない人にとって、です。

『妻隠』の視点的人物である「彼」(寿夫ひさお)は、高熱で一週間寝込んだあとの病み上がりの状態にあります。ぼーっとしているのです。

 なんらかの失調をかかえてぼーっとしている人物が見間違える。他の人物も見間違えている。見間違えているぼーっとした人物(語り手あるいは視点的人物)が、自分とは別の意味で見間違えている他者の話に染まっていく。

 これが古井由吉の小説に特徴的な身振りです。『妻隠』といっしょに収録されている『杳子』もこうした型にそった作品だと言えます。

     ◆

 ここからは私の余談になります。

 上の引用箇所にある「自分のさまざまな有り得る分身が世間にはぐれて渡り歩いている」という気持ちが私にはよく分かる気がします。

・勘違いや人違いをしているらしい相手の錯覚や思い込みに付きあってみたい。
・相手のいだいている自分になってみたい。
・相手の目に映っている自分になってみたい。
・相手の世界観に染まってみたい。

 いささか、あやうい心理ですが、私には理解できます。この小説で相手の錯覚に染まっていく「彼」(寿夫)に染まっていきそうになる自分がいるくらいです。

 自分の思いは、ある意味で退屈なのです。自分のものですから、ありふれた風景でしかありません。

・たまには違った心の風景を見てみたい。
・その風景に染まり、参加してみたい。

 そんな心理なのですが、ご自分にも心当たりはありませんか?        

     *

 ある日とつぜん、誰かの錯覚に出くわす。ただの錯覚ではなく、その錯覚にはどうやら自分がいるらしい。

 誰かの思いのなかで、主人公と言ってもいい自分がいるらしい。別の自分がいる。

 そんな別の自分になってみたい。そんな「自分」を演じてみたい。そうした気持ちになることが私にはあります。よくあります。

 自分の思いだけのなかで生きる人生は、味気ないし退屈なのです。映画、小説、物語、テレビドラマ、音楽、ひいては「現実世界というドラマ」――フィクションを求める人の心はそうしたものではないでしょうか。

 そこには真偽の詮索はそれほど働いていない気がします。現在、その傾向はますます強まっているようです。ネットとAIが拍車をかけているからだと思います。

 ただし、誰かの錯覚に染まって、ミイラ取りがミイラになる恐れもあるので、こうした傾向と事態には要注意です。

     *

 いい面もあります。

 たとえば、誰かが自分についてある言葉をつぶやいたとします。「あなたは○○な人ですね」と。

 それが切っ掛けになって、化ける人がいます。私もこれまでに見聞きしてきました。「あなたは○○な人ですね」とはあくまでも言った人の主観的な評価であり、思い込みなのにもかかわらず、です。

「あなたは○○な人ですね」という形での客観的な評価というのはあり得ないと思います。

 でも、その「あなたは○○な人ですね」という言葉と、その言葉が喚起するストーリーが自分にとって魅力的なものであれば、その言葉とその物語に寄り添ってもいいのではないでしょうか?

 相手の言葉と話に染まるのです。

 それで自分の進むべき方向が見えた気がして、それに向けて頑張ってみる切っ掛けになるとすれば、それは好機であり、その言葉は自分への贈り物ではないでしょうか?

 そうやって「化ける」のです。やってみる価値はある気がします。

 さらに言うなら、別に「あなたは○○な人ですね」でなくてもいいのです。映画、小説、物語、テレビドラマ、音楽、ひいては「現実世界というドラマ」――世界には自分像を作り上げるさいのモデルには事欠きません。

 とはいえ、自分の出てくる話を直接相手から聞くことほどのインパクトはないかもしれません。他でもない自分の登場する、いわば「生身の話」はそれくらい貴重なのです。

 なにしろ、世界にたった一つの自分についての言葉であり物語です。オーダーメードの服のようなものであり、大量生産された既製服ではありません。

 こうしたオーダーメードの言葉や物語は、たとえそれが嘘やお世辞や見当違いで的外れの評価であったとしても、贈られた本人にとってはとてつもなく強い力を及ぼすことがあります。利用しない手はありません。

 人は自分だけに贈られた言葉で化けるのです。

     *

「錯覚について」というシリーズでこれまでに取りあげた、梶井基次郎の『檸檬』、川端康成の『雪国』、吉田修一の『7月24日通り』にくらべると、いささか甘美で危うい錯覚についての話ではありましたが、楽しんでいただけましたでしょうか(◆以降の私の余談は別として)。

 古井由吉の『妻隠』は『杳子』よりはずっと読みやすいと思います。

 この記事を切っ掛けに、お読みになる方がいらっしゃれば、古井由吉の小説のファンとしてはとても嬉しいです。 


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