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宙吊りにする、着地させない

 この記事では、蓮實重彦による二つの断片的な文章を読んでみます。


第一部:宙吊りにする

◆「と」、傍点

 まず、一文だけ紹介します。

「理論実践」、「真実虚偽」、「問題解決」

 以上の文字列が挙げられたあとに、次の一センテンスを含む段落が、『批評 あるいは仮死の祭典』にあります。

「虚偽」は、先験的に「真実」の前に色あせたものとして置かれるべきだし、「解決」が誇りうるその価値は、ひたすら提起された「問題」に照合した上ではじめて測定されるといった具合なので、「と」は、それがほんらい果たすべき並置の機能を失って、遂にはある一つの差別を幻影としてあたりに蔓延させ、「真実」と「虚偽」とがそれぞれ異なった領域を持ち、「問題」と「解決」とがたがいに固有の構造を持っている事実を忘却の彼方へと葬りさってしまう。
(「ジル・ドゥルーズ――エディプスと形而上学」(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房所収)p.65)

 数でいうと、センテンスが1、文字が211、「、」が8、「。」が1です。テーマは、並置の接続詞「と」と言えるでしょう。約物の「」も見落とすわけにはいきません。

 それだけでなく、このセンテンスの前のセンテンスにあった文字列に共通してあった「」を見落とすわけにもまいりません。ルビで振られている点も約物ですが、傍点とか圏点とか脇点と呼ばれているものです。

 原文は縦書きですが、ここでは横書きなので、原文では「と」の右脇に振られていた点が、ここでは「と」の上に振られていて、不恰好になっていますが、仕方がありません。ご理解願います。

 なお、211という文字数は、noteの文字をカウントする機能をつかって得た数字ですが、句読点と括弧も含まれているようです。私は約物も文字だと考えているので、それでいいのだと満足しています。

◆抽象

 引用したセンテンスで私が目を引かれるのは、「差別」「幻影」「蔓延」「忘却の彼方」「葬」です。漢字は目立ちます。

 というか、「ひたすら」「はじめて」「ほんらい」「たがいに」という副詞がひらがなで表記されているので、よけいに漢字が目立つのかもしれません。

 字面は大切です。字面は文字や文字列という物(事ではありません)の姿のであり、目に見えない抽象ではないという点が大切なのです。目に見えない抽象ではありませんから、他人と確認したり共有できます。

 いっぽうで、字面から人が受ける印象は抽象ですから、見えません。印象ですから、人それぞれでもあります。

     *

「差別」「幻影」「蔓延」「忘却の彼方」「葬」という文字の語義やそうした文字が喚起するイメージ(事であって目に見えません)についても気になりますが、今回はそうしたことには触れません。

 書かれた文字の向こうにあるものに目を向けてしまう、つまり話が抽象に走る恐れがあるからです。ただでさえ、抽象に走っているのに、これ以上走ることにためらいを覚えずにはいられません。

 なにしろ、上のセンテンスが含まれる『批評 あるいは仮死の祭典』では、抽象にたいする、ただならぬ嫌悪を感じるからです。

◆シーソー、秤

 上で引用したセンテンスを読んで(または見て)、私が連想するのは「宙吊り」という言葉であり、そのイメージです。

 目に浮かぶ絵があります。シーソーです。板の左右両端にある台が上下しています。

 あるいは秤や天秤です。揺れていたのが、どちらかに傾いて落ち着くとか、釣り合いが取れるさまが浮かびます。

「「解決」が誇りうるその価値は、ひたすら提起された「問題」に照合した上ではじめて測定される」という箇所から連想したのかもしれません。

 測定する、測る、量る、計る、はかる、はかり、秤、天秤・竿秤・台秤。

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 こうした連想や印象もまた抽象であることは言うまでもありません。人が抽象をまぬがれることは抽象だろうと私は思います。

 だからこそ、抽象を嫌悪するスタンスがあるのだろうとも思います。

◆刺身のつま、主役

 思うのですが、「AとB」では、AとBは刺身のつまで、「と」こそが主役ではないでしょうか。

 ロミオとジュリエット、ピンクとグレー、『男と女』(Un homme et une femme)、女と男、Ebony and Ivory、存在と無、存在と時間、ハリー・ポッターと賢者の石、蜜蜂と遠雷、北風と太陽、点と線、美女と野獣、老人と海、スクラップ・アンド・ビルド、トムとジェリー

 たとえば、上のペアでは「と」で結ばれている両者がどんな関係であるかが問題であって、両者は別の両者でもいいわけです。

 試しに「ロミオとジェリー」としてみましょう。「ロミオとジュリエット」や「トムとジェリー」とは別の関係が生じました。「ジュリエットとトム」でも同じことが起きるでしょう。

(以上は、拙文「アンチ・アンチ」から引用しました。じつは、本記事では、「アンチ・アンチ」と、「ルビと約物と字面」に収録した「宙吊りにする名人」を書きあらためているつもりなのです。)

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「刺身のつまと主役」、「主役と脇役」、「刺身と刺身のつま」

 上のペアの両者に上下関係や主従関係を見てしまうとすれば、「AとB」の「と」が、「ほんらい果たすべき並置の機能を失って、遂にはある一つの差別を幻影としてあたりに蔓延させ」ていると言えそうです。

「刺身のつま主役」、「主役脇役」、「刺身刺身のつま」

 ところが、「」という具合に、「と」に傍点が振られることで、「あれっ」と思う人がいるかもしれません。「と」が異化されるとか、「と」が生かされる(活かされる)というレトリックも可能でしょう。

 ちなみに、『批評 あるいは仮死の祭典』には、そうした掛詞がほとんど見られません。私の大好物なのですけど。

『批評 あるいは仮死の祭典』の著者は、「掛ける架ける」というふうに「つなぐ」人ではありません。それは文章の字面を見ると一目瞭然なのです。傍点は目立っても、仮名を振ったルビは、あるにはありますが、乏しいのです。

 目に見えるという意味で、これはとても大切なことです。

     *

「刺身のつまと主役」、「主役と脇役」、「刺身と刺身のつま」
「刺身のつま主役」、「主役脇役」、「刺身刺身のつま」

 いずれにせよ、「と」に傍点が振られることで、「あれっ」とか「えっ、何だろう?」という反応が起きたとすれば、それは宙吊りにあっているからだと私は思います。

◆宙吊り、釣り合い

「AとB」をという文字列を目にして、たとえば、AとBの両者のあいだに関係やストーリーや流れや筋を想定してしまうこと。これが釣り合いです。

 Aが主でBが従だと受けとめ、その関係を当然だと受けとめていれば、その関係は安定しています。つまり、釣り合っているのです。

 逆に、「そうか、Aが主でBが従だと思っていたけど、そうじゃなくて、Aのほうが従でBが主なのか」と受けとめてしまうとすれば、それは新たな安定であり、つまりは、やはり釣り合っているのです。

 安定した釣り合いは宙吊りではありません。宙吊りとは安定を保証してくれる安楽な状態ではないのです。

◆宙吊り、宙ぶらりん

「理論と実践」、「真実と虚偽」、「問題と解決」

 上の三つの文字列の「AとB」をいじってみましょう。

「理論と虚偽」、「真実と実践」、「問題と虚偽」

「AとB」を一部入れ替えることによって、新たな関係が生まれます。生まれるというか、人が関係を勝手に想定するのです。

 関係とか関係性は「ある」ものではなく、人がでっち上げるものだとも言えるでしょう。抽象だという意味です。

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A:「理論と実践」、「真実と虚偽」、「問題と解決」
B:「理論と虚偽」、「真実と実践」、「問題と虚偽」

「あれっ」とか「えっ、何だろう?」と思うどころか、黙りこんで考えこむ人もいるでしょう。「あほらしい」とそっぽを向く人もいるにちがいありません。人それぞれです。

 いずれにせよ、Bを見てAとは異なる、なんらかの反応が起きたとすれば、それが宙吊りなのです。

 というか、そういう意味での宙吊りを、私はこの記事の冒頭で引用した長いセンテンスを読んで(あるいは見て)感じます。

 宙吊り、宙ぶらりん、中ぶらりん。

◆サスペンス

 一つ言えることは、人は宙吊り(宙ぶらりん)を好みません。一時的な宙吊りを我慢すれば到達できる「解決」のあるサスペンスなら別ですが。

     *

 宙ぶらりんは誰もが置かれた、生まれつきの状態だと思います。

 いっぽうで、サスペンスは、その宙ぶらりんに耐えられないから、宙ぶらりんを手なずけるために、人がでっち上げるフィクション(物語)であり、いだくイメージであり、つまりは抽象だと思います。

第二部:文字たちの身振りに振れる

◆文字の身振り

 第一部の冒頭に引用した一センテンスは、誰によって書かれたものか、あるいは誰の言葉をめぐって書かれたものなのか、そうした問いは重要ではないと私は思います。

 大切なのは、むしろ、あの一文に書かれた文字たちがどのような身振りを演じていたかなのです。

 文字が身振りを演じているのです。書いた人というよりも、文字がプレイヤーだという意味です。

◆プレイ、演技、演奏、遊戯、競技、賭け

 play という身振りは、見る側や相手がいて成立します。

 play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
 play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。

 ようするに、振りをしているのです。振りを、流れや筋や進行と言い換えることもできるでしょう。

 振りは見る人や相手がいて、その振りに反応することではじめて振りになります。その反応とは、いっしょに振れる、ともに振れる、ことにほかなりません。

 見ている側(振れている側)の身体が、振れを見て、それに合わせて振れる、揺れる、ぶれるのです。

◆ともぶれ、共振

 振れる( playする)のが人であればわかりやすいでしょう。人が人にともぶれ(共振)するわけですから。

 ともぶれは、人と人だけでなく、人を除いた生き物同士でも、人と人を除いた生き物のあいだでも起こります。

 ともぶれは、人と人、人と物、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、ともに、ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる、ぶれる、ゆれるなのです。

◆文字という物

 大切なのは、あの一文に書かれた文字たちがどのような身振りを演じていたかなのです。

 文字は物です。生きていない物です。生きていないのに生きた振りを演じます。それは人が読むからにほかなりません。

 もしも、地球上からヒトが消えたとすれば、文字を読むものがいなくなりますから、文字はもはや振りを演じることはありません。

 空振りです。ヒト以外に読むものがいないかぎりは、永遠の空振りでしょう。

◆死んだ振り、空振り、仮死

 文字は生きていないのに、見る人の前で、生きた振りを演じます。死んだ振りもします。

 読まれない文字は、死んだ振りをしているのです。文字はその姿が人の目に映っても、その振りが目に映らなければ空振りだと言えます。

 この死んだ振りと空振りを、仮死とも呼ぶことができると思います――。

 人が文字ではなく、文字の向こうに目をむけているときにも、文字は死んだ振りを演じていると言えそうです。

 あちこちでそんな事態が起きていれば、それはいわば、死んだ振りのお祭りでしょう。

 生きていないから、生きた振りができる。生きた振りができるから、生きた振りをしながら死んだ振りもできる――。

 そこにあるのは、振りだけなのです。

 いましているのは、振りから意味やメッセージやイメージを取る以前の話です。意味やメッセージやイメージは、振りを見て自らも振りを演じた人の中に生じるものです。その生じるものは見えません。物ではないからです。

◆物、影、言・事

 文字は物です。その物が演じる振りは文字と文字列という意味では物です。

 ここで固有名詞を出します。

 文字は物です。言と呼ばれることがあっても、目に見えない言そのものではないし、ましてや事ではありません。

 蓮實重彦の書く文字と文字列という物とその身振りは、その事を言の身振りとして演じている気が私にはします。

 振りをする、演じる。これが蓮實重彦の書く文字と文字列の身振りなのです。これは蓮實重彦が物しか信じていないからだと私は思います。

◆宙吊りにする、着地させない

 振りを演じる。そのために蓮實重彦の文字と文字列という物は、言と事を宙吊りにします。宙吊りにするとは着地させない身振りです。

 宙吊り、宙ぶらりん――これは物だけが示す身振りだという気がします。その身振りを見るのは、おそらく人しかいません。

 物は、そして人は、その身振りを繰り返し反復するのです。

◆模倣、繰り返し、反復

 とはいうものの、人はといえば、その宙ぶらりんの身振りを模倣し反復ながら、おそらく、自分は宙ぶらりんではない、安定した釣り合いのなかにいると思いこんでいます。自分が振れているという意識すらもないかもしれません。

 人は宙づりにも宙ぶらりんも耐えられないからです。宙づりや宙ぶらりんとは、それくらい過酷な体験なのだろうと想像します。想像するしかない過酷な体験だろうとしか言えません。

 したがって、宙吊りもまた振りなのです。演じるしかない身振りなのです。振りは振りでしかありません。

◆物、文字・声・映画

 蓮實重彦は物しか信じていません。その物に、文字と声だけでなく、映画も含まれていることを最後に言い添えておきます。

 映画もまた文字と同じく振りを演じる「影」でありながら、「影そのもの」ではなく、人の目に見える「振りを演じる物」なのです。

 物が演じるその振りは人の目に見えます。

第三部:着地させない


 次の文章(これで一段落です)をご自分のペースで読んでみてください。あくまでも、自分のペースで。

「自由」と錯覚されることで希薄に共有される「不自由」、希薄さにみあった執拗さで普遍化される「不自由」。これをここでは、「制度」と名づけることにしよう。読まれるとおり、その「制度」は、「装置」とも「物語」とも「風景」とも綴りなおすことが可能なのものだ。だが、名付けがたい「不自由」としての「制度」は、それが「制度」であるという理由で否定されるべきだと主張されているのではない。「制度」は悪だと述べられているのでもない。「装置」として、「物語」として、不断に機能している「制度」を、人が充分に怖れるに至っていないという事実だけが、何度も繰り返し反復されているだけである。人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。その意味でこの書物は、いささかも「反=制度」的たろうと目論むものではない。あらかじめ誤解の起こるのを避けるべく広言しておくが、これは、ごく「不自由」で「制度」的な書物の一つにすぎない。
(蓮實重彦「表層批評宣言にむけて」(『表層批評宣言』所収・ちくま文庫)pp.6-7・丸括弧による省略は引用者による)

◆宙吊り、いらだち、嫌悪

 私は上の文章に、「」内の言葉(名詞)を宙吊りにしようとする言葉の身振りと、文章を着地させまいとする言葉の身振りを感じます。その身振りは、いらだちにも見えます。

     *

「自由」、「不自由」、「制度」、「装置」、「物語」、「風景」、「反=制度」

 これらの七つの括弧付きの言葉たちを次のように並べることもできるでしょう。

「自由」、「不自由」
「制度」、「装置」、「物語」、「風景」
「反=制度」

     *

 さらに、言葉を加えて分類することも可能だと思います。

「自由」、「不自由」:錯覚される、共有される、普遍化される
「制度」、「装置」、「物語」、「風景」:名づける、綴りなおす
「反=制度」

     *

 共有される、普遍化されるという、名詞を動詞的にもちいる言い回しを形容する、副詞的な言い回しには、いらだちと嫌悪を感じます。

「希薄に」、「希薄さにみあった執拗さで」

     *

 この段落を「要約する」部分があるとすれば、次の二文だと言えるかもしれません。

人が「制度」を充分に怖れようとしないのは、「制度」が、「自由」と「不自由」との快い錯覚をあたりに煽りたてているからだという点を、あらためて思い起こそうとすること。それがこの書物の主題といえばいえよう。

◆進行、身振り

 括弧付きの言葉たちに見られる、「」(括弧)による宙吊りのほかに目につくのは、「ではない」「でもない」「だけである」という文章の進行、つまり身振りです。

 ではない、でもない、だけである――。

 もう少し長くしてみます。

 否定されるべきだと主張されているのではない、悪だと述べられているのでもない、何度も繰り返し反復されているだけである。

     *

「Aではない、Bでもない」という否定の次に予想されがちな流れは、「Cである」という肯定ですが、Cに相当する部分には「何度も繰り返し反復されているだけ」が来ています。

「何度も繰り返し反復されているだけ」――この肯定は、宙吊りにほかなりません。否定を繰り返して、どこか別のところにある新たな場に着地するという肯定独特の素振りがみられないのです。

 不時着したり墜落する気配すらありません。不時着も墜落も、着地にほかならないからです。

 引用文には綴られる言葉からなる文章を着地させまいとする、生理的とも言える意志すら感じます。

◆表が裏に裏が表に、表層

 繰り返しや反復という言葉に釣られて、迂回とか彷徨という言葉も浮かびます。浮かんだ言葉にうながされて、無限や ∞ という記号や、相似や ∽ という記号がさらに浮かびます。

 挙げ句の果てには、メビウスの帯なんていうイメージまで浮かんでくるのです。

 表が裏に裏が表に――。
「自由」「不自由」「自由」「不自由」……。「制度」「反=制度」「制度」。

 いま読んでいる一段落が、『表層批評宣言』というタイトルの書物の巻頭にある「表層批評宣言にむけて」という見出しの章の一部だと思いだして、はっとします。

◆迷う権利

8を横にすれば無限の符牒としての ∞ が得られると指摘してみせたところで、しかし「作品」としての『覗く人』は8への還元を素直にうけ入れたりはしないし、まただいいち、8の主題の反復は、はじめからこれみよがしに配置されていて、隠された構造というより、むしろ表層に露呈した可視的な細部であって、視線を表皮へとつなぎとめる機能しか果たしていないのだ。8を触媒として結ばれゆく細部は、密かな連繋を生きるというよりあからさまな類似を誇示しているのであり、だから『覗く人』で8に着目し、無限を語ることは、迷う権利を放棄することにほかならないのである。
(「アラン・ロブ=グリエ――テマティスムの廃墟」(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房所収)p.90)

 場違いとも言える引用をお許しください。たったいま「無限や ∞ という記号」とか「表が裏に裏が表に」といった安易な連想を書いてしまったことに対する戒めの言葉として引用しました。

 ここでは、引用部分にある「視線を表皮へとつなぎとめる」と「迷う権利を放棄する」に注目したいです。

 そんなわけで「迷う権利」を行使したいと思います。

◆律儀な書物

『表層批評宣言』は律儀な書物なのです。

 身振りが繰り返されています。変奏され変装されてはいるものの、繰り返しの身振りが繰り返され、反復の運動が反復されています。

 私の好きな言い方をすると、文章の言葉がテーマに擬態しているのです。

 ようするに、テーマが言葉と文字の身振りにあらわれているわけですが、このテーマを言葉と文字が演じるとすれば、「希薄さにみあった執拗さで」繰り返し反復するしかないのです。

 そうした反復を目の前にして、読む人は、迷う権利を行使するどころか、あれよあれよと迷うしかなさそうです。

◆ロラン・バルトの身振り

 文章を着地させまいとする生理的とも言える意志――を私は感じたわけですが、蓮實重彦がロラン・バルトとの対話のなかで、バルトから引き出した言葉を思いだします。

蓮實 すなわち、どこでも出現しうる「複数者」ではなく、どこにもいない人﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅いたくない欲望﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅に衝き動かされているというべきではないか。(……)
バルト (……)
 要するに、言語がその流通の過程で、ちょうどマヨネーズかクリームが固まってくる﹅﹅﹅﹅﹅﹅ような濃密なものとなってしまうと、たちどころに他所に行きたくなる。呕吐の拒否反応によって、その場にいつづけることが不可能になってしまうのです。
(「ロラン・バルト――言語の悲劇性とそのユートピア」(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房所収)pp.219-220・丸括弧による省略は引用者による)

 ロラン・バルトの発言は、言葉を固まるもの、言葉を固まらせる社会への生理的とも言える拒絶反応とか嫌悪感を述べたと要約できるかもしれません。

 そして、私はそうした拒絶反応と嫌悪感、あるいはいらだちを、蓮實重彦による上の文章に感じるのです。

◆言葉の身振り、ともぶれ

 以上は、あくまでも私の個人的な印象にすぎませんが、私が引用文を読んでいる最中に感じた、共に振れている自分の身体と心の動きを述べたものとも言えます。

 そして、その動きとは、かならずしも知識や情報や理解といった「何かが得られた」という達成感とはほど遠いものであることを強調したいと思います。

 達成感ではなく、強いて言うなら、迷うとか目舞うでしょうか。

     *

 上の引用文が入っている書物に、達成感や知識の習得や理解や、はたまた悟りを求める人がいれば、失望するにちがいありません。

 あるいは、人前で披露するための気の利いた警句を探している人も失望するはずです。アフォリズムほど、あの書物にふさわしくない言葉はないでしょう。

 また、たとえば200文字以内でまとめるというという具合に、要約に適した書かれ方をしているとも思えません。

     *

 共に振れる――これは文字どおり振れる震れる触れる体験であり、身体に来るものなのです。私にとっては、そうです。

 振れるに正解はありえません。このことは強調しておきたいと思います。


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