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「ない」に気づく、「ある」に目を向ける

 吉田修一の『元職員』の読書感想文です。小説の書き方という点でとてもスリリングな作品です。


「 」「・」「 」


 たとえば、私が持っている新潮文庫の古井由吉の『杳子・妻隠』(1979年刊)に見える「・」ですが、河出書房新社の単行本では『杳子 妻隠』(1971年刊)らしいのです。

 らしいと書いたのは、現物を見たことがないからです。ネットで検索して写真で見ただけです。

 私は「・」がなかったり、あったりする、または「 」のように半角空いている、つまり間が空いてそこには何もないことがあると、つい目が行ってしまいます。

     *

「・」は中黒と呼ばれ、私の使っているパソコンの入力ソフトでは「中黒」と入力すると出てきます。

 「 
 ・
 」
 。
 、
 ……

 ご存じのように、上のいずれもが約物と呼ばれるものであり、まだまだ他にもたくさんありますね。

     *

 蓮實重彥の『批評 あるいは仮死の祭典』(せりか書房)では、約物の使われ方を楽しむのが醍醐味だと私は思います。約物と文字の遭遇とからみ合いが目まいを覚えるほど刺激的なのです。

 ちなみに、蓮實重彥著『批評 あるいは仮死の祭典』にある言葉と文章を眺めていて気になって仕方がないのは、漢字やかなではなく、「」、『』、「、(読点)」、「。(句点)」、「﹅(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点・傍点(圏点)」、そしてルビです。

 古文と呼ばれる日本語の文章にはなかったものばかりです。約物とは読みやすくするためにつくられた一種の約束事であり制度とも言えるでしょう。

『批評 あるいは仮死の祭典』では、ときにはタマネギをむき続けるようなもどかしさを覚えながら、まだまだかとつぶやいていると「、」が来ます。一息入れて次の「、」あるいは「。」が来るまで読み進みます。「」でくくられた文字で立ちどまり、『』でくくられた文字に思いをはせ、「﹅(ルビとして縦書きの文字の右に打たれる読点・傍点)」が施された文字を凝視する。読みやすさを促すはずの約物が、その役目とは隔たった異物に見えてきます。

     *

 たとえば、「、」は「読点」と名づけられていますが、私には「読点」という言葉がぴんときません。取って付けたような気がしてならないのです。「、」は「、」です。「、」でしかないとつくづく思います。

 その形とその存在のありよう(つかわれ方や役割)が愛おしいのです。はっきり言って名前はどうでもいいです。

     *

 あと、『批評 あるいは仮死の祭典』の「 」のように一文字分が空いているとやはり気になってなりません。

 なお、『批評 あるいは仮死の祭典』所収の「Ⅲ」は「批評、あるいは仮死の祭典――ジャン=ピエール・リシャール論」というふうに「、」があります。

 こういう、「で?」みたいなことが私は好きなのです。世界って、「で?」に満ちていませんか?

「ない」ものに気づく、「ある」ものに目を向ける


 上で「(一文字分が)空いている」と書きましたが、古井由吉は「明いている」とか「あいている」と表記することがよくあります。「空いている」とか「開いている」とも書ける場合のことです。

 そういうことに気づくと、古井の作品を読むとき、そうした表記の箇所に差しかかるとやはり私は目が行きます。

 例を挙げると、「扉をゆっくり明けると」(『杳子』p.153(新潮文庫『杳子・妻隠』所収))「道を明けて」(『妻隠』p.174(新潮文庫『杳子・妻隠』所収))です。

 いま述べているのは、たとえば実用書の出版における、表記が標準である標準ではないとか、正しい正しくないとか、校正の対象であるとかないとか、編集者や出版社の意向と作者とのせめぎ合いとか、「大家」の表記だからまたはそうではない、あるいは謎解きといった話ではなく、文学の話をしています。

 私の考える文学では、「ない」ものに気づき(気配かもしれません)、「ある」ものに目を向ける(これは体感です)ことも含まれます。

「ない」も「ある」も「ある」からにほかなりません。文学とは、文字として「ある」ものと「ない」ものに等しく目を向けることではないかと考えています。

     *

 ただし、ここで述べている「ない」ものとは、「ある」ものの向こうに見える、意図とか思想とか伝記的事実ではないことは言うまでもありません。

 とはいえ、「文字として「ある」ものと「ない」ものに等しく目を向ける」は、私がそうありたいと思っている読みのスタンスであって、現実には私は「ある」ものの向こうに、そこには書かれていない「何か」を見てしまいます。

 これは、人であるかぎり当然でしょう。

「ない」ために目立つ


 ないからかえって目立つ。英語では conspicuous by one's absence という慣用句があります。

 いま私の頭にあるのは、古井由吉の小説『水』と『杳子』です。

『水』という短編では、「私が省かれている」、つまり「ない」という書き方がなされています。この点については、以下の「「私」を省く」で引用をしながら論じているので、よろしければお読みください。

     *

 一方、『杳子』では、杳子をタイトルにし、杳子という文字で始まる小説であり、あれほど杳子という名前が何度も出てくるにもかかわらず、視点的な人物である「彼」の名前(イニシャル)が「ない」ままにかなり長く引きずられる形で作品が成立しています。⇒ 「まばらにまだらに『杳子』を読む(09)」

     *

 先日、似たような経験をしました。

 ある小説を読みはじめたのですが、冒頭からしばらく読みすすんだところで(三人称で書かれていのではなく、一人称の語りだと思いはじめたころ)、語り手の人称代名詞が省かれているのに気づき(語り手の名前もなかなか出てきません)、ないなあと思いながら読みつづけていたところ、p.35になってようやく一人称の代名詞が出てきたという経験をしたのです。

 吉田修一の『元職員』(講談社)という小説です。

 上で述べた古井由吉の作品のような書かれ方をしているとは想像もしていなかったので驚きました。うれしくもありました。私はそういう書き方が好きなのです。

「ない」とか「欠けている」ことが「ある」とビビッと感じてしまうと言えば、お分かりいただけるでしょうか。

一人称の代名詞が省かれている


 吉田修一の『元職員』では、始まりがp.3で、おしまいがp.166なのですが、p.35になって「俺」が初めて出てきます。二番目の「俺」はp.39に、三番目はp.41に、四番目はp.42に出ます。

 順を追って説明しましょう。

 この小説の冒頭では、語り手がタイのバンコクの空港に到着して、夜の街に出て行く場面から始まります。目立つのは、一人称の代名詞が省かれていることです。

 一人称の代名詞があってもいいセンテンスでそれが省かれたまま、作品が進行していくという意味です。目だけが移動したり浮遊する感覚にあふれた文章とも言えます。私が大好きな書き方です。

 目だけの人物というか、視点的人物のような語り手は、到着の翌日に通りにある屋台で昼食を取ります(p.10)。そこで、「てっきり現地の若者だとばかり思っていた青年」と知りあいます。

目が合ったので、「親切なんだね」と声をかけた。(p.14)

 これが青年との初めての接触なのですが、「目が合う」という記述が、この視点的人物である語り手にふさわしいと私は感じます。

「(視点的人物の)視線に気づいた青年が」(p.15)という描写にも興味を引かれます。語り手の存在感が希薄で、まるで視点が語っているような書かれ方がなされているために、ここで視点が「視線」という言葉を呼び寄せたような印象を私はいだきます。

 もぬけの殻と言ったら言いすぎでしょうが、この語り手はひたすら「見る」人として描写されているように私には感じられます。

 海外や日本全国の街や町や村を、人の目の高さに構えたカメラで撮影する番組がありますが、ああいう視点的な臨場感が、この小説の冒頭に漂っているのです。

「 」から「こちら」へ


 続くp.16で、この視点的人物はある人物と出会います。

青年は津田武志と名乗った。(5行目)

 このすぐ後で、「こちらが気ままな一人旅だということを伝えると」(8行目)と書かれています。私の見落としがなければ、この「こちら」が、初めて語り手である視点的人物を指す主語になる瞬間であり、私なんか「あっ」――この感動詞は吉田修一の作品に頻出するものです――と言いそうになります。

 出たあという感じ。ようやく主語が出ました。

 p.18では、場面と時が変わり、「片桐さん! 片桐さんって!」と視点的人物が名前で呼ばれます。語り手の名前がここで初めて出るのです。

 しかも、その次の行で「こちらも相当酔っていたが」とありますが、まだ「私」とも「俺」とも書かれていないのです。そう書かれてもいいセンテンスで、主語が依然として省かれているという意味です。

 その後は、「こちら」が続きます(p.25、p.29、p.30、p.34)。もっとも、英語に訳せば、I ではなく here となりそうな、方向を示す「こちら」もあります(p.29、p.30)。

「 」と「こちら」から「俺」へ


 場所はホテルの部屋で、時は朝――。

「帰らないでほしい」と、俺はベッドの傍らを叩いた。(p.35)

 ようやく「俺」が出ました。

 p.35になって、一人称の代名詞である「俺」が初めて出てくるのですが、これは上で述べた津田武志という青年に紹介されて、ホテルで一夜を過ごした相手であるミントという現地の女性に対する懇願の言葉なのです。

 一人称の代名詞が省かれたり、一人称の代名詞として「こちら」と記述されることもあった視点的人物がようやくここで「俺」になることによって、津田とミントという三人の関係が描写されやすい環境が整ったかのような印象を私は持ちます。

 しかも、まだ視点的人物を引きずっている「俺」が、方向と場所を示す「傍ら」を「叩いた」という描写が意味ありげで、私は目を引かれます。

「ねえ、こっち(こちら)においでよ」、ぽんぽんという具合に、このシーンが目に浮かぶようです。この仕草が、視点的人物である自分を語り手が捨てる儀式に見えると言ったら言いすぎでしょうけど。

車中、運転手はこちらの関係に気づいているのか、ひどく不機嫌で乱暴だった。(p.36)

 ホテルの部屋の場面に続く文章ですが、目にした瞬間に私は唸ってしまいました。吉田修一さんはうまいなあ――。

「こちら」が視点的人物だけではなく、彼とミントという女性の二人を指しているからです。

 こういうところに私はぞくぞくしないではいられません。これまで書かれてきた語り手を指す「こちら」が、ここになって男女二人を指すことにより、二人の関係を見事に言いあわらしているのです。第三者である運転手の視線があるからです。

     *

 p.39になって、二番目の「俺」が出てくるのですが、そばにはミントがいます。二人がホテルの部屋で朝食を取るシーンです。

 この場面が続くp.40での言葉の身振りがスリリングな展開を見せます。

珍しそうにジャムを選ぶミントの姿が、ふと妻の麻衣子の姿に重なったのは、ブルーベリーのジャムを勧めた時だった。(P.40)

 ここから立て続けに「麻衣子」という妻の名前が四回(pp.40-41)出てくるのです。

 語り手、ミント、日本に残した妻。その三角関係を描くために、同じ場面のp.41で三番目の「俺」、そしてp.42で四番目の「俺」が書かれます。

 いきなり人間関係が錯綜し、それに合わせて「 」(省かれた一人称代名詞)と「こちら」が「俺」に変わるとも言えます。

 もぬけの殻のような、どこかうわの空でぼーっとした視点的人物――放心しているのには理由があるのですが、これはある意味で伏線と言えるかもしれません――が、このあたりから、ようやく人間関係に投げこまれて活気づく感じ。

 なお、p.54で、武志の「バンコクで暮らすようになった経緯」を聞き、内省的になった「俺」が、初めて「自分」という言葉を使います。しかも、三行で三回も用いるのですから、なかなか興味深い言葉の使用です。ここでも私は唸ってしまいました。

ストーリーでも内容でもなく、書かれてそこにある言葉の身振り


 まとめます。

 私の印象では、この小説においては、「 」(省かれた一人称の代名詞)と「こちら」(一人称の代名詞)と「俺」の登場によって雰囲気が徐々に変わっていくのです。

 1)冒頭での、主語が省かれて目だけが世界を見ているという放心を連想させる書き方。I=eye。
 2)「こちら」という自分を方向で指す語でもある一人称の代名詞の登場が、二人の主要な登場人物たちを「視線」のからみ合いへと転じる。視点的人物だった語り手が自分を相対化する身振りとも言える。
 3)一人称の代名詞の出現。一人称の代名詞としては限定的な使い方しかできない「こちら」ではなく、「俺」という一人称の代名詞が選ばれることによって、錯綜した人間関係――「俺」(片桐)と津田武志とミントと日本にいる妻の麻衣子――を記述する語りの文体へと移行していく。

「 」が「こちら」、そして「俺」となるにつれて、限定的な描写の文体が語りの文体に転じていく。「いま」と「ここ」だけという雰囲気の「現在」が、過去と祖国日本を含む時空を背景とした人間関係の渦巻く「現在」へと転じていく。

 そんな印象を私は持ちました。途中まで、ですけど。最後のほうで、この印象が裏切られるのです。

 冒頭の主語を省いた限定的な書き方(文体)では、厚みと奥行きのある人間関係は描けないとまとめることもできます。

     *

「ない」「欠けている」が「ある」「備わっている」へと移行していく言葉のさまは、読んでいてきわめてスリリングなのですが、私にとってスリリングなのは、ストーリーでも内容でもなく、書かれてそこにある言葉の身振りだということを書き添えておきます。

タイトル、title、肩書き、カタギリ、前科


 以下に、この小説を読みながら取っていたメモ――この作品について何か書こうと思っていたのです――から気になる文字やフレーズを抜き書きします。

 冒頭、空港、観光客、観察、傍観、目、視点、浮遊感
 一人称? 三人称? ハードボイルド private eye 目
 話者、語り手、視点的人物

 お金、嘘、鏡(P.111、p.116)、仮面、犯罪
「俺」(片桐)が津田武志に染まっていく、うつっていく、演じていく。分身。
 パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』、タイ、ヨーロッパ、異国、母国、太陽、分身、鏡。

 タイトル、title、肩書き、カタギリ、KATAGIRI、KATAGAKI、肩書(「犯人・容疑者などの前科」(広辞苑))
「元職員」(p.158)、報道
 元職員 片桐、元職員・片桐、元職員 片桐、元職員・カタギリ氏

「 」という謎


「肩書」に前科の意味があるのは知りませんでした。

「元職員」というこの小説のタイトルの醸しだす多義性が、この小説の読みを面白く豊かにしてくれるかもしれません。

 たしかに、片桐は、いつ「元職員 片桐」と呼ばれてもおかしくない状況に置かれているわけです。異国にいるために、「元職員」という「肩書き」付きで報道される事態を猶予されているとも言えます。

 それなのに……。ネタバレになるので、これ以上は言えません。

     *

 KATAGIRI・KATAGAKIと並べてみると、アナグラムになりそうな感じで、思わず文字をいじっている自分がいます。一致しないIR・AKを組み合わせると何か意味のある言葉が現れるのでしょうか。RIKA、KARIという具合に。それともタイ語でしょうか。

 器用な人なら、何らかのひらめきがあって、謎を解くのかもしれません。そもそも、謎なんてないのかもしれません。

 文学作品を対象にして、謎を捏造し、謎解きをするのは楽しいものですが、いっぽうで、こんなことをしていいのだろうかという後ろめたさも覚えます。⇒ 「『杳子』で迷う」

消える「俺」、再び出てくる「俺」


 この作品では最後のほうになって、一人称の代名詞が省かれた文体に戻ります。私の見たところでは、とつぜん「俺」が消えるのです。P.130以降、そうした書き方で小説はラストに向かっていきます。

 ハードボイルドという言葉が連想される文体です。描写だけでなく、回想や伝聞をまじえて複雑な人間関係も語られるのですが、目だけになった感のある語り手が一人称の代名詞なしで語っていきます。

「俺」が省略されているため、読む私はよけいに緊張感を覚えます。この文体を維持する吉田のテクニックの冴えを感じます。

「自分」(これは人称代名詞的には使われていません)p.136、「こちら」p.140、「自分」(これは相手と自分をはっきりと分ける記号として使っています)。次の「自分」はじつに効果的に使われていると思い、唸りました。

殴られた顎はズキズキと痛んだが、どこかすっきりとしている自分がいた。(p.164)

今まで通り、仮面をかぶって働けばいい。(p.165)

 この直後にp.166――このページでこの小説は終わります――になって「俺」が再び出てきます。この段落を引用したいところですが、ネタバレになりそうなので引用できないのが残念です。

 ない、現れる、消える、再び現れる――この密やかで華麗な身振りに気づき目を向けるだけで、私にとっては十分です。この身振りが謎ではないことは確かでしょう。


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