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多層的で多元的なもの同士が、ある一点で一瞬だけつながる世界

「春」を感じるたびに連想するのは「張る」です。辞書の語源の説明には諸説が紹介してありますが、私は「張る」派です。

 春になると、いろいろなものが張ります。木々や草花の芽やつぼみが膨らむのは張っているからでしょう。

 山の奥でも雪解けが進み、川面が膨らんで見えます。道を歩く人たちの頬も上気したかのように見えます。細い血管が膨らんでいるようです。

 山川草木、そして人が膨らみ張って見えます。膨張するのです。

     *

 私は花粉症なのですが、症状が出るたびに、鼻の奥や喉や気管支の粘膜が腫れているような気がしてなりません。

 細かい血管に血液が送りこまれ、そこが腫れているのでしょうか。腫れるのも膨張です。

 身のまわりも身のうちも張っている、それが春。水や血液で張っているというイメージ。

 水分がたっぷりで瑞々しいのです。水々しいと書きたくなります。

 やっぱり春は張るだとつくづく思います。

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 春、張る。世界と体が同時に並行して張る。世界と身体が張り合ってシンクロする。

 張る芽と腫れる血管と春がシンクロする。世界と身体と思いと言葉がシンクロする。

 張り裂ける芽、腫れる粘膜、晴れる空――。言葉のレトリックと世界のレトリックを強引に重ねてみました。

 世界にはレトリックがあるような気がしてなりません。

 もちろん、いまのは比喩でありレトリックです。つまり、そんなものはないという意味ですが、人はあるものよりもないものに動かされます。

 とりわけ、春になるとヒトはないものに動かされているように見えます。浮かれているのです。

 浮き浮き、ぷかぷか、ぽかぽか。

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 春は始まりの季節です。とくに日本はそうです。会社も学校もお役所も春に始まります。新年度が春なのです。

 新年度を見たことがあるでしょうか? 人はあるものよりもないものに動かされます。

 浮かれるのです。すると、ないものが見えるようになります。

 レトリックはさておき、春は「たつ」、春に「たつ」、春で「たつ」。春は「たつ」なのです。

「たつ」に「発つ」や「起つ」や「勃つ」があるのに気づいて、はっとします。

 東京を発つ、旅立つ、風が立つ、虹が立つ、席を立つ、鳥が飛び立つ、民衆が立(起)ちあがる、住民運動に起(立)つ、勃つ。

 どれも、始まるわけです。ある動きが起きるのです。さっと立つ、がばっと立つ、あるいは、むっくりと立つ。そそり立つもあります。

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 春は立つ、春は張る、張るは立つ。

 水分や血液がみなぎって、何かが始まる感じがします。眠っていた生命が息を吹き返すイメージでしょうか。

 生命を感じさせる「張る」は、生殖や性ともつながっている気がします。

 前立腺肥大や前立腺がんを連想します。男性にとっては身近な病気です。行動が制限されます。気持ちも萎縮します。萎えるのです。立つの反対は座るよりも萎えるかもしれません。

 回春という言い方がありますが、春には人生における春という意味合いもあります。

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 発情期がはっきりしないというか、常時発情しているかに見えるヒトも、春にはひときわ、うずうずするのかもしれません。

 常時情事だなんて、この星ではヒトだけではないでしょうか。道理で、常軌を逸した行動が多い気がします。

 常時情事は非常時だと言わざるをえません。

 しかもエスカレートしていませんか? しょっちゅうむらむらしているために、正常な判断ができない心理状態にあるようです。

 世界はむらむらに満ちていませんか? むれてむらむら。まさにヒトの世界です。そんな映像や言葉や音声に満ちています。

 そんなんばっかり。

 春だけとか、ある一定の期間ではないのです。ヒトの場合には……。ひとごとみたいに言って申し訳ありません。

「ひとごと」は「人事」とも「他人事」とも書くのですね。人事を尽くして天命を待つ。

 話をもどします。

 春だけとか、ある一定の期間ではないのです。ヒトの場合には。

 それなのに恋せ恋せ恋だ恋だとさらに煽っている。どう見ても、世界に足りないのは愛だと私は思います。

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 春は立つ、春は張る、張るは立つ、春に立つ。

 言葉に端を発するかたちで、まわりの世界を見たり思いえがくと、動物も植物も、そして人間も春には張り切っているさまがうかがわれます。

 言葉のレトリックと世界のレトリックが重なりシンクロしているようです。

 こじつけっぽいですね。

 というか、こじつけや掛け詞や駄洒落や比喩は、言葉と世界をレトリックつまり綾でつなぐという点では同じ仕組みだと思います。

 言葉どうしをからませることで、言葉と言葉が指すものをからめ、言葉と世界をからめ、ひいては世界と世界をからめる。

 これが可能なのは、言葉も世界も多層的で多元的であるからでしょう。

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 具体的には、言葉の音や形や意味やイメージの類似や合致という一点で掛けることで、つなげるのです。

・音の類似と合致の場合だと、たとえば「ふち・縁・淵」です。同源だと多義語、語源が同じではないときには同音異義語と区別しますが、言葉を掛けるさいにはそうした区別は意味をなしません。

・形の類似だと、たとえば「縁(えん・ふち)」と「緑(みどり)」をつなげることができそうです。

・意味の類似だと、たとえば「ふち・縁、きわ・際、へり・縁、はし・端、すみ・隅」がつながります。

 ふちえんなのです。へりにいるからこそ他者との触れ合いが可能なのであり、ど真ん中にいては外とのご縁はありません。

 端と端があって橋がかかる、これが架け橋。こっちの端から向こうの端へと声を掛けてかかるのは、言葉という懸け橋。

・イメージの類似は、意味(辞書に載っている語義くらいの意味です)と違ってイメージが個人的なものなので、いちがいには言えませんが、たとえば「陰、隠、淫」に私は音だけでなくイメージの韻を感じます。

・「渦」と「禍」だと、音も形もイメージも韻を踏んでいる気がします。共通するイメージは「スパイラル・悪循環・地獄」です。例:○○禍、○○渦、あと○○鍋も。

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 このように、言葉の音、形、意味、イメージの類似という一点だけ(複数の点の場合もあります)で、懸け離れたもの同士を一瞬つなげることができます。

 それが比喩であり掛け詞であり駄洒落であると言えます。

 ちなみに、駄洒落は掛け詞の別称であり蔑称でもあるわけです。いまのは音の類似でつないだ例です。またもや、このネタをつかってしまいました。やっぱり、春ですね。

 多層的で多元的なもの同士が、ある一点で一瞬だけつながる世界――はかない美しさを私は感じます。まぼろしなのかもしれません。きっとそうです。

 つながってなどいません。そう見えるだけ思えるだけ(ヒトにはそう見えるだけで確認や検証ができているわけではないという意味です、ただし諸説あり)です。

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 レトリックの基本的な身振りが「からめる」であるとするなら、レトリックの根っこには同期があるように見えます。

「AといえばB、BといえばC、CといえばD、Dといえば……」という、つながりであり、ながれです。引っ掛けていくのです。

 繰りかえします。大切な点は、AとBとCとDが並列や並置であり、どれもがフラットな関係にあって、上下関係や因果関係や時系列をなしてはいないことです。

 この関係がフラットなのは、引っ掛け引っ掛けられる、つまり引っ掛けあうそれぞれの要素がニュートラルである、つまりどっちつかずで、どっちにも転ぶからだと思います。

 だから、掛けることで言葉と世界がシンクロするのです。このときには、身体もシンクロしているような気がします。同気や同期(同期生の同期です)に同期して動悸するのです。

 たぶん、この掛けるは賭けるとシンクロしている気がします。掛ける、賭ける、足掻く。

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 人も人以外の生きものたちも、圧倒的な偶然性の支配する世界で、賭けを余儀なくされている。生まれおちた瞬間に、世界というギャンブルに強制的に参加させられている。そんな気がしてなりません。

 さらに言うなら、賭けもシンクロも、きわめてニュートラルな要素のあいだで生じるニュートラルな身振りだという気がします。その意味では平等だし公平なのです。

 どっちつかずで、どっちにも転びます。私たちはサイコロの目なのかもしれませんね。

 私たちがサイコロを振っているのではなく、私たちがサイコロなのでもなく、たぶん私たちはサイコロの面にしるされた目なのです。一瞬の骰子の一振りから出た目なのです。

 それにもかかわらず、ニュートラルな賽の目として受けいれなければならない平等と公平に逆らっているのが、ヒトなのかもしれません。

 たまたま出たサイコロの目に優劣や上下関係をつけているのです。

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 目を腫らし 骰子一擲 春の風

 来る三月十八日は、フランスの詩人ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé)の誕生日です。


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