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マリーアントワネットはギロチンで処刑されるべきだったのか?

こんにちは。
デンマークでワクチンを受けるのか日本でワクチンを受けるのはどちらが早いのか瀬戸際に立たされている松木蓮です。
#たぶんデンマークで打った方が早い


(2599文字 / 約5分で読めます)
(小見出し5つあります)

さて、今日は社会派ブロガーちきりんさんの記事から考えた「罪と罰」についてです。今日はゴリゴリに社会的な内容になっています。罪は罰せられるべきなのか?についてです。


▼マリーアントワネットの悲惨な最期

マリーアントワネットという名前は、世界史の知識がなくても一度くらい聞いたことがあるんじゃないかなと思います。それほどに名の馳せた人で、幼いながらも歴史に名を連ねる方です。

有名な逸話として、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言い張った、あの方です。今考えれば、まあ健康的ではないけど、確かに家にパンがなくてお腹空いてるならお菓子食べなよ!っていうのはあり得なくはない話ですね。

ただ、彼女が生きたのは500年も前のこと。当時は、キレッキレの階層社会で貧富の差が歴然としている時代です。今ほど物質的な豊さがあったわけではないので、この発言はもちろん民衆の反感を買います。

元々マリーアントワネットはオーストリアのハプスブルク家(当時の大金持ち家系)に生まれ14歳の時に、政略結婚でフランスへ送られます。そして、有名なルイ16世と結婚。

で、国家の貧窮と貴族らの豪遊に痺れを切らした市民が立ち上がり、ご存知フランス革命が起きます。そして、彼女らは夫婦共々ギロチンで処刑。


▼処罰か、更生か?

ここからはちきりんさんのブログの内容を僕なりに要約します。ちきりんさん自身は結論を出していませんが、こういう風な角度から社会を見ることも大切だよねという頭の体操というか思考のトレーニングのきっかけをくれる書き方をしています。

さて、そんなわけでマリーアントワネットはギロチンで処刑されるに値するのか?ということなのですが、果たしてそうか?

先ほどの通り、彼女は14歳で作られた結婚を経験し、外国へ送られます。オーストリアとフランスなんて近いよ、なんてのは現代の話で、当時は移動は馬です。数時間そこらで移動できるほどカジュアルではない。

おまけに、物心つき始めた少女が知らない人と結婚をさせられ、言語もままならない環境で孤独を感じていたことは容易に想像がつきます。

彼女はお洒落やパーティーに荒れ狂い、散財の日々を過ごしていたようですが、本当にそれは罪なのか?シーンだけ切り取ると、Yesなのかもしれませんが、ストーリーで見るとそうとも思えない。

彼女の生活環境がそうさせていた、とも考えられるわけですね。個人を咎め、償いの手段としてのギロチン公開処刑です。社会というマクロな視点から見ると、これはとてもやりきれないことだと思います。


▼罪と罰

社会は公共の福祉に反しない形でルールが定められています。それを法律と言ったりしますが、その一線を超えると、違法とみなされ罪を被る事になる。これは社会の秩序を守るべき正しい施策だと思います。

それでも、罪を犯した全員が同じように罰を受けるべきかというと必ずしもそうでもないと思えるわけですね。

今回のマリーアントワネットのように、彼女の価値観や生活水準は彼女自身が好んで作り上げたというよりも、環境によって作られたものと考える方が良いと思います。

歯磨きをしない人、ご飯の前に手を洗わない人がいたとして、その人たちに対して「歯磨きしなよ」とか「手を綺麗にしてからご飯食べようね」というのは正しいですが、なぜ彼らにそういう習慣がないかというと、そもそも知らないということが往々にしてあります。

これは僕がマレーシアの島嶼部の山奥で出会った不法移民の子供たちなのですが、彼らはそうした環境で育っているので、その環境に適応しながら育ちます。親が教育を施さないと、こうしたことが起きるということです。

話を戻すと、罪とひとえに言ってもそれは個人が咎められるべきではないケースが結構あるということです。環境によって犯罪を犯してしまったということがあるということなんですね。

それを個人の責任で片付けてしまうのはとてもやり切れないと思います。


▼報復と修復

罪と罰の延長として、その在り方に対する態度で「報復」か「修復」かという考え方があります。何に正義を置くのか、ということで物事の見え方が変わるということです。

英語では「Retributive Justice」という報復的正義と、「Restorative Justice」という修復的正義という概念です。

報復的正義というのは、罪を犯した人は咎められ、罰を受けるに値するという考え方で、罰することでもって償わせようとする考え方です。アメリカのケースがよく引き合いに出されますが、日本もどちらかというとこっちの流れを汲んでいると思います。

一方で、修復的正義というのは、罪を犯した人には何某かの心理的欠陥や、環境的不安定さがあるはずだから、心の状態や環境を整えることで直していこうという考え方です。ある種、病気を治すみたいな感覚に近いと思います。

後者の方では、ノルウェーをはじめとする北欧諸国でその考えが見て取れます。刑務所と聞くと「ショーシャンクの空に」で描かれるようないわゆる独房を想起すると思います。これはアメリカ的な刑務所の在り方です。

一方で、ノルウェーはどうかというと独房というよりは学生寮に近い、比較的アットホームな環境がそこにはあります。

僕自身、ノルウェーの刑務所に訪問したことがあるのですが、この辺についてはこちらの記事(↓)で詳しく書いているのでここでは割愛します。

簡単に要約すると、罰することを手段としている報復的正義の場合と直すことを手段としている修復的正義の場合とでは再犯率から数値で結果が出ています。

2年以内の再犯率で見ると、アメリカは60%、ノルウェーは20%(日本は30%)です。


▼罪に対する考え方

そんなわけで、マリーアントワネットは本当にギロチンで公開処刑されるべきだったのかは当時を生きた人にしかわかりません。

ですが、今を生きる人たちは今だからできるようなあり方を模索することが重要だと感じます。

全ての罪を一緒くたにして良いものなのか?最善の更生の在り方は何なのか?時代と場合で分けていくことは、ますます多様化するこれからにとっても重要な課題だろうと思います。

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今回取り上げたちきりんさんのブログ:

https://chikirin.hatenablog.com/


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