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バス停、隣に箱

 バスのライトがこちらを照らすのを、黙ってガラス越しに見ていた。
その眩しさですら、今は妬ましい。

 ただのバイトで、ただのレジ打ち。先輩や店長はとてもいい人たちだし、仕事もそんなに辛くない。一人が好きな反面、どこかのコミュニティに入っていないと安心できない私には、この距離感が丁度良い。
 今日もタイムカードを押して数時間、客がぱたりと来なくなる。先輩は倉庫へ、僕は数人残った客のためにレジのこちら側へ独りぼっち。入った当初にノイローゼになるかと思っていた、入店チャイム音がまた来客を伝える。

『いらっしゃーせこんばんあー』

 早口で、でも伝わる最低限度を。別に評価されたくてここに来たわけじゃないから、怒られないぐらいをほどほどにして目線を入口へ。入店の際に客と目を合わせると防犯率が減るらしいけど、つい最近目の前で万引きを見てしまった私には何の説得力も無いなと思う。「自分が危険な目に合わないようにするため」と心の中で皮肉呟いて、マスクから見えるところだけを営業用の顔にしておく。

 「危険な目」と言えばこのバイトを始めてから早半年。怒鳴る客やクレーマーよりも自分の身の危険を感じた客は、ただのレジ打ちである私を口説いた客に対してだった。ドラマや映画のモブキャラにしかそんな奴はいないと思っていたが、案外そうでもないらしい。顔も真っ赤、言語もあやふや、加えてだらしなく歪んだスーツ。ああ、これぞダメな大人だと認識せざるを得ないような。けど、私が見たいわゆる「そういう人たち」は決まって口をそろえてこういうのです。バイトのねぇちゃんあんたも、

『結婚せなあかんもんなぁ』

 顔立ちの綺麗な女性がマスクの中から小さく「お願いします」とつぶやいた。買い物かごには、四本の缶酎ハイと重なって数えられないスイーツがあった。「はぁい。」と外面の猫を多めに被ったまま応答する。商品のバーコードを通してお客さんが渡してくれた真っ黒のエコバックに詰めていく。
「12点で1845円でございまぁす。」
『それ、通しました?』
エコバックの下敷きになったビーフジャーキーを一つ指さして女性は小首をかしげる。
「あ、」
頭の中で反省し、謝罪交じりに値段を訂正する。こんな綺麗な女性でもビーフジャーキー食べるんだな、と思ってしまったことは内緒にしてほしい。会計を済ませた後、『ありがと。』と述べて目元のアイシャドウのラメを煌めかせた女性のもとに、身長の高い男性が駆け寄ってきた。一言二言交わした後、真っ黒のエコバックを攫って、私に眩しい笑顔を見せて、おじきをしながら去っていった。私の営業用の猫がその眩しさに逃げた気がした。こんな綺麗な女性でもビーフジャーキー食べるんだな、と思ってしまったことは内緒にしてほしい。だって、あれは彼女ものではないのだから。

 ここに来る人達は、様々な事情や背景を抱えてここにいると私は知っている。「お疲れ様です」と声を掛けると嬉しそうな顔で『いつもありがとう。』と言ってくれる会社帰りのサラリーマン。レジの前で一気にしゃべった後、『長々ごめんなぁ』と言いながらキャラメルをくれたおばあちゃん。バスの時間ぎりぎりで『ごめんなさい、ちょっと急いでて』と焦っているご婦人。クレーマー。店員の言うこと聞かないやつ。カップル。サークル帰りの大学生。近くの塾に通う高校生。全員、ただの一人として同じ人はいない。
 その一つ一つからにじみ出る個性が、関係性が、その人の人間性が、私には羨ましくて仕方ない。

 優しさ、気遣い、怒り、自己中心的思考、愛し愛されること、学歴。多分、私に誇れるものは何もない。特に、誰かを愛し、愛されることに対して私は赤点を突き出されてしまうだろう。いっそのこと補修授業があればもっと後悔せずにここまでこれただろうか。

『ねぇちゃんも結婚せなあかんもんなぁ』

 あの時のダメな大人の言葉が胸に引っかかったままで苦しい。「結婚」が幸せの答えではないと思っている私には恋愛ができなかった。相手の理想になろうとして、安易に心を滅ぼした。そうしたら自分が相手のことを想う気持ちにも、想われていた気持ちにも信用ができなくなっていた。なんで私には他人ができることがこんなにも苦しいのだろう。失ってから気付くとは言い得て妙である。私は失ってから、かなり時間が経ってでないと気が付かなかったのだから。私は確かに忘れられずにいることに。あの時、信用できなかった思いがここにあることに。

 退勤時間になってタイムカードを押して、油のにおいが染みついた服を着替える。たばこの壁と先輩に挨拶をして、ガラスの箱に別れを告げた。深夜の街に繰り出す。眩しいほどの人間性を持ち合わせていない僕は、真っ直ぐ駅の改札に向かう。夜空に浮かぶ月があの日々に似ていて、少し泣きそうになった。バイトの間、有線のラジオで流れていた曲が頭から離れてくれない。

『長く甘い口づけを交わす 深く果てしなくあなたを知りたい』

ごめんね、もう知りたいなんて思わないから。