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普通であることの勇気

新年の1月も気づくとあっという間に月の半分が経ちました。
 
年末年始、実家に帰った際に読むのが、
 
アドラー心理学の名著
 
「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」
 
 
これまでも何度も読んでいますが、毎回読むごとに、違った角度から数々の素晴らしいインスピレーションを与えてくれます。
 
最も影響を受けた本のひとつです。
 
 
中でも今回、心に刺さった言葉が、
 
『普通であることの勇気』
 
というものでした。
 
 
普通であること。
 
 
人から注目されたい、認められたい、特別な存在になりたいというのは、人間の大きな習性のひとつです。
 
そのために、何かしらの方法で注目されたり、認められようとします。
 
 
こんな成果を残した!
 
とか、
 
こんなすごい人と知り合いになった!
 
とか。
 
無意識に目立とうとしている行為は誰にでもあると思います。
 
 
周りとは違う、特別な存在になろうとすることで、人は自分自身を維持しようとする。
 
 
僕自身、特別な存在になるためにできる限りみんなと違う、特別な存在になろう!なろう!とこれまで頑張っています。
 
少し特別なことができたらすぐに自慢をします。
  
普通では特別にはなれない。
 
嫌味に聞こえないような伝え方になるよう工夫もしてきました。
 
 
特別ではなくなってしまうこと、すなわち普通であるということは、ある意味では自分がなくなるような感覚。
 
そんな自我の死というものは、最も恐れていることのひとつです。
 
 
 
連休の3日間は、母校の大学で開催している就活生に向けたワークショップに社会人のいち講師として参加をしてきました。
 
学生が大きな気付きを得て、変化していく伝統ある素晴らしいワークショップです。
 
 
そのときの出来事なのですが、あるときに、僕は自分のことを大きくみせるような言葉を発しました。
 
それはきっと傍から見ていても、当事者間としても、なんでもない一瞬の出来事であったと思います。
 
僕の仕事観を話したのですが、その言葉の背景には、自分は特別な仕事をしている! と伝えたい意図がメインになっていて「普通ではない存在」のアピールが一番になっていました。
 
 
それを発した後には、なんだか自分の中でとても違和感がありました。
 
その言葉に、学生はもしかしたら、すごいな!! と思ってくれたかもしれません。
 
ただ、その言葉は、僕が学生のために発した言葉ではなく、自分は特別なのだ!を満たしたいがために学生を利用した発言でもありました。
 
学生を相手にして自分を大きく見せようとしていた自分がとても恥ずかしい。
 
かっこ悪い30歳でした。
 
『普通であることの勇気』
 
とても身に沁みた経験でした。そして、いま気づけてよかった。

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