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お年寄りに席を譲ろうと思わない理由

「お年寄りや体の不自由な人、妊婦さんには席を譲る」

小学校低学年くらいにはほとんどの人が教え込まれているであろうこの“常識”を疑いはじめたのは2,3年ほど前からだった。それまではこの行為は絶対的に正しいと思っていて、電車でそういう人たちを見つければ積極的に席を譲ってどこから来るかわからない自己満足に浸っていたりしたのだが、自分の中の”席を譲る対象“から“お年寄り”が消えた。

こう考えるようになった理由を語る前に話さなければいけない過去がある。

自分は様々な形で周囲の人間を亡くしている。サークルの後輩が突然死したこともあれば親戚が交通事故や自殺で帰らぬ人となった。更に、お世話になった先輩が殺人事件の被害者になったこともある。突然死した後輩は21歳、交通事故の犠牲者となった親戚は26歳、殺人に遭った先輩は23歳だった。いずれも当時の年齢だ。これはまた別のところで話そうと思う。


とにかく、こういう経験を持っているので自分はやたらと"死"に対して敏感なのである。突然死した後輩は飲み会から帰ってきてすぐに部屋で眠りに付き、そのまま起きることがなかったらしい。それから寝るのが怖くなったし、毎朝“起きられた”ことに喜びを感じてから一日をスタートさせる。

"いつ、どのようにして死ぬかわからない"という考えを持ち、今生きていられることに感謝しながら日々を過ごしている人はそれなりにいると察するが、おそらく自分は人一倍そういう覚悟を持って過ごしていると思う。なんなら常に数秒後死ぬかもしれないくらいの危機感と恐怖感を持ちながら日々過ごしている。これは誇張でもない。また話は変わるけど、そもそも自分がいま28歳で、28年前にこの世に生を受けてから心臓とか脳とか体の臓器が動き続けているわけだけど、そもそもノンストップで28年動き続けてるってすごいことじゃないか。急に止まってもおかしくない。そんなことを日々考えている。ただ、こんな思いを持ちながら過ごすのはけっこうツライ。

本題に戻ると、数秒後、数時間後、それか明日にでも死ぬかもしれないという思いを持ちながら日々過ごしている自分にとって60とか70まで生きていることというのは“普通”のことではないのだ。“生き続ける”というのは1億円当たるくらいの価値があるんじゃないかと常々思っているし、だからこそ街中で見るご老人の方々は自分から見たらハイパーな特権階級である。

要は貴族を妬む労働者階級みたいな感じ。1億の資産を持っている人に10万円しかない自分が5万円を渡す、みたいなのはけっこう意味がわからない。全然違う話になると思うけど、自分にとって老人に優先席を譲るというのはそういう感じである。

ただ、一方で自分は妊婦さんと小さい子にはけっこう積極的に席を譲ってあげる。江戸時代に大名行列の前を通ることが許されたのは“新しく生まれる命より尊いものはないから”という理由で出産の助けに向かう産婆さんだけ、という話は割と有名だと思うが、割と自分の思想はこれに近い。

どう言っても批判はされそうだが、自分はこういう価値観に則って、今日も電車に乗っている。



最後に。自分は「つばき」というバンドが好きなのだが、昨年の5月にボーカルの一色徳保さんが長年の闘病生活の末亡くなった。脳腫瘍の末、37歳で。その一周忌的な意味も込めてこの5月頭にライブがあって、その後に一色さんの奥さんであり(ちなみに2人は一色さんの闘病中に結婚した)、バンドのドラムを務めるおかもとなおこさんがブログを書いていた。そこの一節を以下に記す。


余命宣告を受けた日に徳ちゃんがぽつりと言った、「おじいちゃんになってみたかった」という言葉が忘れられません。


自分もおじいちゃんになれる日が来ると良いなぁと思いながら、今日を生きる。


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