発達系女子とモラハラ男 (書評) 後編

 博士研究員の発達障害者、red_dash です。
 今回は、前回に引き続いて鈴木大介氏の書籍「発達系女子とモラハラ男」について書きます。

 前回は本書のあらすじとして、彼とその発達障害の妻の生活改善に至った経緯に触れました。次に、発達障害者に生じる困りごとの分析が見事である点を紹介しました。

本書に感銘を受けた理由その2 社会モデルに踏み込む

 本書が興味深かった理由として、『社会モデル』という言葉を使わずに、しかし確実に障害の社会モデルに踏み込んでいた点を挙げます。
 彼は度々、社会の在り方について触れています。「それまで何の不自由もなく生きてきた世の中が「圧倒的に意地悪く理不尽で無配慮にできている」」ことや、「その(障害)特性をカバーする教育の機会を与えられてこなかった」ことに気づいたと書いています。その最たる記述は以下のようなものでしょう。

 健常脳の持ち主なら10の認知資源を使うごく簡単な作業に、妻たちは20も30も削られる。起床しているだけで、周囲の環境情報に削られる。緊張や不安があれば、その摩耗はどこまでも加速し、普段ならできることもできなくなってしまう。
 我が家の家事改革でたどり着いた、「公平とは作業量ではなく脳(認知資源)の消費量で釣り合っている状態」の知見に立てば、例えば時給900円のコンビニバイトをしたとしても、妻たちは1800円や2700円をもらわなければ、不公平。
 (中略)
 人の倍苦労して働いて、人より低い評価と報酬しか与えられない。それが、当事者の生きる「理不尽すぎる社会」だ。

 社会の在り様を通じて、私たちは誰しもがある種の『評価』に晒されます。この基準が健常者に則したものであるほどに、発達障害者は困難に直面します。その理不尽を指摘してくれる記述を頼もしく感じました。
 一方で、彼の記述がいわゆる『成果主義』とかけ離れていることもまた、よくわかるかと思います。『成果主義』もまた、ある種の理不尽をなくす装置であり、社会的に求められています。両者には乖離があり、そのジレンマは埋まりにくい。それでも、発達障害者の直面する理不尽を少しでも埋める方策が社会に浸透することを願ってやみません。

終わりに:私が、あるいは私たちが"社会"に求めていることは高度すぎないか?

 この本のように、発達障害をうまくかみ砕いて説明する本が出てくれたことをありがたく感じます。社会を寛容な方向に進めてくれる一助になることを私は期待します。彼は発達障害者の困難をうまく健常者でもわかるように伝える通訳の仕事を果たしてくれたのではないでしょうか。
 一方で私は、いかに障害の受容を社会で進めるのは困難か、に思いを馳せずにはいられませんでした。鈴木氏はいわゆるリベラリスト、障害や貧困に手を差し伸べる志を持ってライターとして前線に居らっしゃったのでしょう。しかし、その彼ですら発達障害の妻の障害を理解して分析して受容して、共に在るための工夫を完成させるためには16年の歳月を要したのです。
 彼は「最も必要なのは、「できないこと」の背後に、どんな「苦手(障害特性)があるか、それがどんな基礎特性が絡んで起きている事なのかについて思いを馳せる、創造力や着眼力を養うことです。」と書いています。しかし、これには知的に高度な能力を要します。当事者ですら自分の特性を把握して十分に分析できる人は一握りでしょう。まして、思想や情熱を持たない "一般的な" 健常者の方に理解を求めることができるものでしょうか。...それでも、わずかな希望を望まずにはいられません。

 いずれにせよ、発達障害とそれに伴う困難を見事にかみ砕き、関係性の構築の一例を描いて見せた本書は見事でした。

(引用は全て 発達系女子とモラハラ男──傷つけ合うふたりの処方箋 鈴木大介 著 2021年 より)


余談

 他人事のように、社会の在り方が~ などと私は書きましたが、これは必ずしも誠実な態度とは言えないのかもしれません。私は間違いなく当事者であり、社会に何かを改めてほしいならば、まず動くべき立場の人間でしょう。努力不足なのかもしれません。
 一方的に何かを願い望むだけであってはならないのかもしれません。それでも、私が今何ができるかはよくわからない。ひとまず、文章を書いてみることで小さな一票を世に投げ入れてみることが、少しでも役に立てばと願います。

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