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【ポスドクエッセイ】私の大学院時代の足取り~また、その後の足取り~[前編]

東洋大学東洋学研究所奨励研究員 中村元紀


哲学の研究をしているポストドクターの中村さんのエッセイです。中村さんはなんとなく哲学科に進学し、漠然と大学院に進学したいと考えていたそうです。そんな中村さんが哲学と向き合うと同時に自分とも向き合い、度重なる論文のリジェクトなどの苦難を乗り越えながら見出したこととは・・・!?
(本文:7025文字)


1. 学部生時代の私

 なぜ大学院に入学したのか?今思えば、学部入学時から漠然と大学院に入学したいという思いがあった。ただそれはあくまで漠然としたものであって、「大学院に入ってから、 何を研究したいのか?」までははっきりと考えてはいなかった。 高校の倫理にハマり、なんとなく哲学を学びたいというだけで、哲学科に進学したただの若造であった。
 ただし、学部においては、今後大学院の指導教官として師事する先生に出会うことができた。私にとって、その先生の授業は、他の先生方にはない魅力を感じ、その先生の授業だけは欠かさず出席するようになった。
 学部 4 年生に差し掛かった頃、依然哲学に対する理解が浅いと感じ、まだまだその先生の授業を学んでいたいと感じるようになった。
 ただ、あくまで大学院に入学を志した理由が、「その先生の授業をまだまだ学んでいたい」という願望のみにすぎず、肝心の「自分は大学院において何を研究し、何を成果として残したいのか?」という観点が全く抜けていた。
 そうしたこともあって、指導教官の研究するテーマにはどんなものでも興味があった私 は、そのうちどれを卒業論文のテーマにして、大学院においてさらに深く研究を進めるのか、という研究計画すら、まともに自分で決めることができなかった。
 そのため結局のところ、指導教官から北欧神話の「ニャールのサガ」を卒業論文のテー マとして決めてもらい、それで卒論を書くことにした。
 しかし、他律的に指導教官から卒論のテーマを決めてもらったということもあり、「ニ ャールのサガ」やまたそれに関する二次文献や別の北欧神話の書物をいくら読んでも、私の心に響くほどのものはなく、読めば読むほど、よく分からなくなっていった。
 哲学書というものは、概して用語の定義を行い、それに基づいて論が展開されていくものである。しかし、「ニャールのサガ」などの北欧神話は、哲学書ではなく、あくまでも 物語作品である。そのため、手法としては、その登場人物の心情や背景などを加味しつつ、 その作品中の登場人物になりきって、読み込むことが必要となってくる。要するに、いかに作品中の世界に没入できるかが重要な鍵となってくる。
 だが、浅学で愚昧だった私は、「読み進めて行けばいつかわかるだろう」と安易な考えで、ニャールのサガやそれに関する二次文献を読み進めていたが、結局具体的な自分の見解をつかめないまま、些末な卒論を仕上げてしまった。 
 卒論に対する口頭諮問に対しても、全くもって曖昧な返答しかできなかったことから、 指導教官の先生は呆れかえり、今まで見たことがないような形相で私を睨み付け、酷く叱責した。自分の無能さに情けなさを感じた。 このままではいけない!と思い、大学院博士前期課程においては、「自分の心の底から 「これこそ、私が研究したいものだ!」と思えるものを修士論文で書かなくては…」と思った。

2. 博士前期課程での私


 本来であれば、卒業論文のテーマをもとに、その内容をさらに深めていくのが修士論文 というものである。しかし卒業論文自体、十分なものを書けなかった私は、修士論文では 研究テーマを変えて執筆しようと考えた。
 その時、ドイツの哲学者、カール・ヤスパース (1883-1969) に関する研究書である、増渕幸男著『ヤスパースの教育哲学研究』をたまたま大学の図書館で手にし、それを読んでみることにした。すると、人は他者との「交わり Kommunikation」を行うことで、「実存 Existenz」、すなわち他の誰でもない、あるべき自分自身の生き方を深く求めんとするもの として、互いに自分らしく生きることができる、というヤスパースの主張に深く感銘を受けた。  
 またヤスパースがギムナジウム (日本における中高一貫校のようなもの) の生徒だった頃、 各生徒は学生団体に所属することが義務づけられていたが、どれも傷の舐めあいのように感じられたヤスパースは、どの学生団体にも属することなく、一人孤独でいることに悔しさを覚えながらも、甘んじてそれを受け入れた。そうしたヤスパースのエピソードは、高校時代孤独を喫していた私にとって共感を覚えた。
 そのようなこともあり、修士論文は、ヤスパースを題材に執筆することにした。 博士前期課程 1 年目は、ヤスパース哲学を、「デス・エデュケーション」という自殺予防教育に繋げて考えてみようと思い、それで論文を書こうとしていた。しかし、ヤスパース についての十分な知識がないにもかかわらず、なんとなくの自分の解釈をもとに、ヤスパ ース哲学とデス・エデュケーションを繋げようとしていたことから、「あまりにも自分勝 手な解釈、なおかつ自分勝手な論調である」と他の先生方や同僚から批判されることにな った。
 そこで、博士前期課程2 年目は、ヤスパース哲学そのものに重点を置き、しっかりとそれを理解する必要があると考えた。そのため、修士論文も「ヤスパース研究―挫折から哲学することへ―」と題するものにした。
 修士論文の概要は以下の通りである。ヤスパースの主張する哲学とは、挫折を契機として始まるものであり、その挫折をもとにして、あるべき自分自身である「実存」を取り戻すために、他者との「交わり」を求めようとする、ということをヤスパース哲学全体から 論証しようとするものであった。
 博士前期課程入学時は、修士号を取得したら、すぐさま高校の教員に就職しようと考えていたが、修士論文を書いていくうちに、次第に執筆することの楽しさを覚え、「いつま でも論文を書いていたい」という、いわゆるランナーズ・ハイ、否ライターズ・ハイのような状態となっていった。
 結果として、おおよそ20 万字(スペースを含む)程度の文量を執筆した。しかしこの修 士論文は、あくまでもヤスパース哲学に対する私の情熱でもって、書き上げたようなものであり、今思えば、新規性や実証性などを欠いた学術的には粗末な論文であったと猛省をしている。
 修士論文を書き終え、提出した際には「やはり博士後期課程に進学したい!」という思 いが芽生え始めた。だが、博士後期課程の入学試験がとっくに終わっていた時期でもあったため、1年間バイトのかけ持ちで学費を稼ぎつつ、指導教官の授業にも毎週参加し、博士後期課程に必要な知識を身につけることにした。
 そうした具合で 1 年間の浪人ののち、私は博士後期課程へと進学した。

3. 博士後期課程での私

 博士号取得後の人生は、厳しいものであるという情報は、ネット上にあふれる巷の噂で聞き知った程度であったが、「人間はいつか死に行くものなのだから、どうせ死ぬなら自分のやりたいことをやって後悔のない人生を歩みたい」と思い、博士後期課程の進学を決意した。
 これこそが、主体的真理を求めんとしてなされた、私にとっての実存的決断である、と言えよう。実存とは、他の誰でもない自分にとっての生き方、すなわち自分らしい生き方 を求めんとする人間のあり方である。そうした実存の場合、自分の内なる「なさねばなら ない müssen」という必然性から、自分にとってのあるべき生き方を選び取る「決断 Entscheidung」を行う。それは、ただ単に数多ある可能性のうちから「あれも―これも」 という仕方で任意に何かを選ぼうとする「恣意 Willkür」などではない。むしろ実存的決断 とは、二者択一の中でどれか 1 つを選ばなくてはいけない「あれか―これか」の状況下において、またさらにはそれを選んだ時には引き返すこともできないような過酷な状況下においてなされるものである。
 そうした強い思いを内に秘めつつ、私は博士号取得に向けて、まずは査読論文の作成に取りかかった。
 しかし、それは決して容易なことではなかった。
 何度論文投稿を行っても、リジェクトされる日々が続いた。その度に、私の無能さが突きつけられ、それにより私の自己存在そのものが否定されたかのような感覚に陥り、その度に私は論文を書くのが嫌になった。
 なぜそのようにリジェクトが続いたのかと言えば、まずはヤスパース研究そのものの理解がまだまだ浅かったからだということが一つ言える。
 学内にはヤスパース専門の研究者がいなかったため、修士論文を作成する際は、自分でヤスパースの著作を読みながら解釈を行っていった。そこで私は、博士後期課程になってから、ようやく日本ヤスパース協会で研究発表を行ったり、ヤスパース研究者とともに原典でヤスパースの著作を読む勉強会に参加したりするなどの学外での研究活動を始めた。
 だが、博士前期課程において自分で理解したヤスパースの内容は、ヤスパース研究者か らみると筋違いのものが多くあったため、一からヤスパースのことを知る気持ちで、ヤスパース研究者との勉強会に常に通った。
 また、私の論文がリジェクトされていた理由をもう一つ挙げるとするならば、私の書く論文には新規性がなかったことが挙げられる。
 私の書く論文はどれも、既に先行研究で書かれていた内容ばかりのものであり、ヤスパース研究者の間では当たり前のものとしてあったため、学会誌に掲載できるようなレベル に到底ないとして、リジェクトされていたのである。
 そのため、今流行りのテーマをモチーフにして新規性を出そうと「ヤスパース哲学における科学技術批判」をテーマにして論文の執筆を続けた。しかし、どれもリジェクトされるばかりであった。またその時分は、「とにかく早く業績を作らなくては」と焦っていた。 そうしたことから、「なぜそもそも私はヤスパース研究なんかをやっているのか?もっと業績の出しやすい研究テーマにすればよかった…」と後悔し、人生の選択を誤った自分を責めた。この頃は、ヤスパース研究が楽しかった頃の面影はなく、むしろ心を失い、論文執筆そのものにつまらなさと苦しさを味わった。
 「私は所詮ヤスパースのファンであって、ヤスパース研究者ではない」ということを突きつけられたような気がして、それに日々苛まれた。今すぐにでも筆を折るべきではと思った。
 また、指導教官とヤスパース研究者間の研究手法の違いに出くわし、それに戸惑ったこともあった。
 私の指導教官は、「邦訳でもいいから、とにかく色んな分野の本をたくさん読みなさい。 色んな教養を身に付けるべきであり、狭い視野のみで物事を論究するような論文書きには ならないように」とおっしゃっていた。その先生の言っていることは一理ある。私の指導教官の専門は、デンマークの哲学者キルケゴール (1813-1855) であった。キルケゴールの思想は、一つの著作を読むだけでは到底理解しきれるものではない。著作を全て通読することを通して、思想の全体像を把握したうえで、はじめてキルケゴール思想を論ずること ができるのである。
 対して、ヤスパース研究者の先生方からは、「邦訳ではなく、原典でヤスパースの主著である『哲学』を丁寧に精読し、内容の細部まで正確に理解する必要がある。多読などもっての他」と言われた。これも一理ある。ヤスパース哲学の原点は、主著である『哲学』 にある。そのため、『哲学』以後に出版されている著作は、『哲学』の中でなされている主張をベースとして書かれているものである。こうしたことから、『哲学』の内容を十分に 5 理解できていないと、『哲学』以後の著作 (『理性と実存』や『真理について』など) の内容を十分に読み込むことはできず、むしろ自分勝手な解釈に走ってしまうことになりかねないのである。
 また、キルケゴールとヤスパースの文体の違いから、それらの著作を読みこなす際の手法にも違いがあるということに気づくこともできた。
 キルケゴールの文体は、哲学的な内容を文学的でエッセイ風の美文で書く、いわゆる 「レトリック」の要素を含んでいる。そのため、文法通りに読むことは重要だが、単なる 直訳ではなく、邦訳した際にも日本語として美しいものに仕上げる必要があった。感覚的 に言えば、夏目漱石が「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳したものに近い。
 しかし、ヤスパースの文体は、先ほどのものとは異なり、論文調で書かれているもので あり、いわゆる「ロジック」の要素を持つ。そのため、前後の論理的文脈を加味しながら、 文法通りに精読していく必要がある。先の夏目漱石の例で言えば、「I love you.」と書かれ ているならば、やはり文法通り「私はあなたを愛している」と訳出しなければいけないのである。
 そうしたそれぞれの研究方法の違いに困惑しながらも、まずはヤスパースの主著である 『哲学』を正確に緻密に読んでいかなくてはいけないと考え、その読解に励んだ。それには、博士後期課程の規定年限である 3 年を超えるほどの歳月がかかった。 博士後期課程 4 年になっても、査読論文の業績がない私に対して、指導教官の先生から 「私の所属するキェルケゴール協会で、研究発表をやってみてはどうか?」という助言をいただいた。
 私は学部生の頃、キルケゴールの著作を精読する授業に参加していたが、キルケゴール についての仔細な研究をしたことがなかった。そのため、キルケゴール協会での研究発 表には、心底自信がなかった。
 しかし、ヤスパースとの連関性を踏まえたうえでキルケゴールについて何か発表はできないものかと考えて、論文執筆に取りかかることにした。 今までの私は目先の業績にとらわれて、些末な論文ばかりを書いていた。しかし、「それではいけない。自分の実人生と照らし合わせるような仕方で、ヤスパース哲学に取り組まなくては」と考えを改め、「そもそもヤスパースが生涯求めたものとは何か?」という ヤスパース哲学の本質に迫るようなテーマで論文を執筆することにした。そこでまずは、 ヤスパースのいう「実存」という言葉は何に由来するものなのか?を調べることにした。
 ヤスパースは『哲学』の中で、「実存とは、実存自身に関わり、かつ、その実存自身に 関わることの中で、実存自らの超越者に関わるものである」と語っている。これは、実存 とは、自分にとっての心の支えとなる存在であり、かつ自分がそれに向き合うべき存在で ある「超越者 Transzendenz」と関わりながら「自己反省 Selbstreflexion」を行うという、 いわゆる「内的行為 inneres Handeln」を行う存在であるということが記されている文であ る。その文に対して、ヤスパースは註を付記しており、その中にキルケゴールのことが書かれてあった。それに対して、私は何か違和感を覚えた。そこで、キルケゴールの主著で ある『死に至る病』を読んでみると、「人間は、精神である。しかし、精神とは何か。精神とは自己である。しかし、自己と何か。自己とは関係であるが、…(略)…その関係は、 関係自身に関わり、かつ、こうした関係自身に関わることの中で、他者〔神〕に関係する」 という記述を目にした。つまり、ヤスパースのいう実存は、キルケゴールの『死に至る病』 に登場する、いわゆる〈関係としての自己〉に関する記述に由来するものであったということが分かった。またこうした実存のあり方をヤスパースは「内的行為」と呼ぶが、それ は、キルケゴールの著作である『人生行路の諸段階』に登場する言葉でもあった。 この考えをもとに、私はキェルケゴール協会において研究発表を行い、それをもとにした論文を作成することで、なんとか査読論文として学会誌の掲載をとりつけることができた。この経験をもとに、ヤスパースは、自らの実存哲学をキルケゴールの思想を下敷きに 形成されていることがわかった。
 ただし、注意しなくてはいけないのは、ヤスパース哲学とキルケゴール思想の相違性である。それを端的に言えば、他者との「交わり」の有無である。ヤスパースは他者との交わりがなければ、あるべき自分自身、すなわち実存になることはできない、と主張する。 しかしそれに対して、キルケゴールは他者との交わりを否定し、むしろ、ただ一人神の前に立ち、「孤独 Einsamkeit」の中で神と向き合いつつ、あるべき自分自身である実存を求めようとする「単独者 der Einzelne」としての生き方を求める。このように他者との交わ りを強調する点にこそ、ヤスパース哲学の独自性であるともいえよう。
 そこで私は、ヤスパースがキルケゴール思想から受容したものとは何か?、またそれとは逆に、キルケゴール思想に反発する仕方で形成されたヤスパース哲学の独自性とは何か?という観点で、博士論文を執筆することにした。 ようやく博士論文の執筆にとりかかることができたのは、博士後期課程の 5 年目頃であったと記憶している。かなり遅いスタートであった。それでも、博士論文を作成する機運が整ったことに私は安堵した。だが、そこにもやはり大きな壁があった。

(後編に続きます)


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