置いたら(老いたら)あかん:呑み行為の許容範囲について
昔々の一気飲みは散々でした。
「置いたら(老いたら)あかん!置いたら(老いたら)あかん!」との掛け声の下、飲み干すことが暗黙の了解となっていた飲み会が多くありました。
その後、一気飲みで色々事件が各地で発生し、今では夜の街以外にはもうないことでしょう。
今思うに、先輩方の掛け声には、深い不快な意味があり、「給料は我慢代が半分相当」という非常識がまかり通っていた時代を反映していたのだと思います。
ただ、つい最近まで、若しくは依然として現代も、組織人としては、多くの理不尽を「呑む」ことで円滑に進む事態が幾ばくか、若しくは相当数あるように思います。
相対の場合での「呑む」行為は、上司と部下の場合には、上司の「心根」を慮ることができる場合を経験しています。
しかし、それを私が部下に対して行うことは、過去もこれからもありません。
「意思の疎通」の手段として、「水面上で堂々」とやり、多少の「忖度」はお互いあり得ても、やり方を工夫するのみ、です。
何かを水面下に潜らせる場合は、「高度なツーカー関係」が成り立つ場合に限定した方が良い、と考えています。
かつて、証券会社の中には、「呑み行為」がまかり通っている時代がありました。
つまり、顧客からの受託資産の運用を有耶無耶にして、「配当」若しくは「損失」の目分量を分配していた、といいます。
ブロックチェーンの到来により、これらは罷り通らなくなります。
また、「働き方改革」の施行により、「給料の半分は我慢代」という時代環境ではなくなるでしょう。
つまるところ、「呑み行為」の許容範囲は、「信用・信頼関係」のある関係性での「大きなGive & Take」の成立の文脈の中に見出すこと以外は、「余計な理不尽」を「呑む」時代環境ではなくなってきているように思います。
その文脈解釈は、人其々、ということになりますが、「自己責任の人生設計」の中で、「呑み行為」の「相当因果関係」を「自己消化」出来ないならば、健康面の問題も含め、「呑もうとしない」ことでの「自己防衛」が必要だと考えます。
リスクマネジメント的には、「保有・低減・移転」という括りの中では、「リスク量が見えていないならば、消極的自家保有をしない」という決意が必要だと思います。
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