自分の「男らしさ」に向き合う

杉田俊介「非モテの品格」を読んだ杉田の友人の編集者の言葉がすっと心に届いてきた。
秋葉原連続殺傷も、安倍殺しも、障害者殺しも、小田急線事件も、精神科クリニック放火も、京アニ放火も同じ線上にある。そこに間違いなく私も立っている。
2012年ごろは抑うつ状態として自分を傷つける方向に向いた。このほどは、依存症の形で加害の方向に吹き出した。ずっとずっと解決できずに続いている。
そして、これは「ネトウヨ的な感性」「ヘイト的なもの」が根にあるという以下の指摘。男らしさの呪縛が、女性やマイノリティへの敵視・「過剰な防衛機制」につながっている。フルタイムで真っ当に働く妻への羨望や「憎しみ」もここにつながっているのか。本当に愕然とする。
 
決定的な暴発を避けるためにも。「あの加害者はこんな投稿をしていた」とは絶対にしない/させないために、闘わないといけない。そういう危機というより、分岐点に私は立っている。

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(以下、「相模原障害者殺傷事件 優生思想とヘイトクライム」p167-168より引用)
男性学では、「男らしく」ではなく「自分らしく」生きよう、と言われる。しかし男性が「男を降りる」という余地は本当にあるのだろうか。働いて家族や自分の食い扶持を稼ぎ、誰かを頼らずに生きていくことから、それをスティグマなしに免れるオプションはほぼない。おそらく失業してもヒモになっても引きこもっても。自意識としての「男」を降りることはできない。
 男たちはぎりぎりまで緊張に耐え、逆ギレ的な暴発やDV、自死のような形でしかそれを放出できない。それを「男のプライドから自由になれない」と斬って捨てることに対し、あなた(杉田)は強い違和感を表明している。たとえ、日本人でヘテロセクシュアルのマジョリティ男性であっても、そこには特有の生き苦しさがある。当事者がそれに最も無自覚であっても。あなたはそれを注意深く摘出しながら、何とかして克服する道を探ろうとしている。それがどこまで到達できたのかは、まだわからないけれども。
 しかし、あなたの言う男性特有の不安や強迫観念とは、今の日本を覆う「ヘイト的なもの」や「ネトウヨ的な感性」の根に深く食い込んでいるのではないか。彼らの怨念が向かう先は、生活保護受給者だったり、貧困女子高生だったり、フェミニストだったり、フィクションとしての「在日特権」や「プロ市民」だったりする。自分たちを外から糾弾し、さらに何かを要求してくる(と妄想する)者への過剰な防衛機制。それは結局「男であること」の条件を奪われながら、そこから逃れられない男たちの不安がネット空間で純粋培養されたものではないだろうか。
 だとしたら、そのようなマジョリティ男性たちの不安や被害者意識を言語化し克服しようとすることは、政治的にもアクチュアルな意味をもちうるものかもしれないが、他方でそれ自体が「そうだ、本当は我々マジョリティこそ被害者なんだ」というバックラッシュに再び使われるという危険も孕んでいないだろうか。だとしたら、男にとっての最大のタブーである「弱さ」を、他者への攻撃に転化せずに、公共的なものへと消化するには、そうすればいいのだろうか。

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