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将来の夢にテンプレ回答を求める大人たち。

進路を決めるたび、選択肢から除外される花形職種。

 アベプラにて、大人が子どもに将来の夢を聞いてきて困らせる「ドリームハラスメント」たる言葉を初めて聞いたが、バリエーション豊富な〇〇ハラの中では、もっと一般に周知された方が良い概念だと感じたため、こうして記事にする動機となった。

 まず前提として、私も例に漏れず卒業文集で「将来の夢」について書かされたクチだが、大多数の大人と決定的な差があるとすれば、「電車の運転手」と記して、そっくりそのままの職種に就くことになったことだろう。

 極めてレアケースだと思うが、数少ない一度は夢を叶えた側の人間が、自身の経験を踏まえた上で、それでも子どもに対しては夢なんてなくても良いと考え、逆に大人に対してはその質問は愚問だとこれから記す意味では、説得力が違ってくるはずだと思っている。

 そもそも、この手の質問はアベプラの夏野剛氏が発言したように、「何歳まで聞くのか」に帰結するように思う。

 それこそ、小学校低学年頃までは、無邪気に「医者」「プロスポーツ選手」「宇宙飛行士」「著名人」と答えても「良い夢だね」「叶うと良いね」「頑張ってね」と言われるのに対して、中高生にもなると「いい加減、現実を見ろ」と諭されるのが目に見えている。

 これは大人目線だと、相手が「子ども」であれば何を言っても優しく受け止めるが、じきに社会に出る「大人予備軍」ともなると、どんなキャリアを思い描いているのかを聞き、現実的なアドバイスをするモードに切り替わるのだろう。その節目が小学校高学年前後ではないかと考える。

 子ども目線なら、幼い頃は無限の可能性があって、無邪気に思ったことを口に出せば褒めてもらえる。しかし、学校生活を繰り返す過程で、適性や学力という名の現実を知ると、進路という名の「人生の限界」が浮き彫りになり、99%の子は医者やプロスポーツ選手、宇宙飛行士の実現可能性が皆無な現実を直視する。

 そうなると、自身の希望ではなく、自身が決める進路の中から、実現可能性がありそうな職種の中で、世間体の良いものを選ぶことが「将来の夢」にすり替わり、成人に近づくにつれて、選択肢がどんどん狭まる。

 進路を決めるたび、幼少期に夢見た花形職種が決して実現しない現実に直面し、やってみたいと思った職業のほとんどが選択肢から除外される挫折を味わい、残された数少ない自分でも就けそうな選択肢の中から「やりたい職業」「なりたい職業」を選ぶのは困難である。

 それに加えて、子ども時代は、自分の周囲にある世界しか見れず、視野が狭いのだから、調香師みたいなマニアックな職種は知る由もない。もし私のように運よく実現したところで、求めていた世界がこれではなかったと燃え尽きて、良い歳して振り出しに戻るようでは目も当てられない。

 それに最も多く関わるであろう大人の大多数は賃金労働者なのだから、起業家とか、経営者とか、投資家などの選択肢を知る余地もなく、夢を与えられない生き様を見せているであろう大多数の大人が、「将来の夢」を聞いてくるのは些か酷ではないだろうか。

からあげレモン問題同様、袋小路な愚問。

 聞かれる子どもからすれば、本心でやってみたいと思うような夢はあっても、実現可能性という現実の枠組みを踏まえると、その中では見つからない。ゆえに「夢がない」「わからない」と答えるのだろう。

 冒頭にも記したように、社会に出る年齢になって無謀な夢を語れば「現実を見ろ」と諭され、現実主義で堅いプランを語れば「夢がない」と言われる。折衷案でそれっぽい受け答えをすれば、往々にして自分の本意ではない。

 そんな夢を聞いたところで、全員が幸せになれる答えがない類の質問であることが、容易に想像できる訳で、それなら最初から聞くなよ。と私は考えて他者にこの手の話を投げかけることはない。

 これは、宴会のからあげレモン問題の構造にそっくりである。居酒屋で頼む唐揚げに備え付けのレモンを「かけますか?」と聞かれて万が一、レモンが苦手だとしても否定しづらい。

 渋々YESと答えれば、自分にとっては苦手なレモンがかけられた唐揚げを、感情を押し殺して食べる羽目になる。仮にNOと答えようものなら、空気の読めない奴、自己主張の激しい奴と集団の中で浮くのが目にみえる。かと言って、折衷案で「自分が食べる分にはかけないでくれ」とか言い出せば細かい奴だと思われる。

 いずれに転んでも、全員が幸せになる答えがない意味で、事実上、多数派である唐揚げにはレモンをかける派閥のロジックを強要される訳だ。ちなみに私はレモンを皮ごと丸かじりできる強キャラなので、レモン苦手派閥の気持ちを精一杯、想像力を膨らませて記した。

 本題に戻ると、将来の夢も同様に、聞いたところで全員が幸せになる答えなどない袋小路であり、事実上、実現可能性の中で最も社会的地位が高く、誰が聞いても納得の行く現実路線な夢を語るべき派閥のロジックを強要されているのだから、愚問以外の何者でもないだろう。

大人こそ、夢を見せるべきでは?

 教育政策で夢を持つことが定められた背景に、00年代にフリーターの割合が増えたことを、若者の就業意欲の低下と捉えた的な解説があったが、バブル崩壊後の政治の失策を、氷河期世代以降に責任転嫁しているだけとしか思えない。

 氷河期世代が何か日本社会にとって悪いことをした訳でも、決してやる気がなかった訳でもない。平成不況となった際に年功序列、終身雇用という名の既得権益を守ろうとしたしわ寄せで、不運にも就職が無理ゲー化したに過ぎない。

 それにも関わらず事実上、テンプレ回答を求めがちな「将来の夢」を、社会的立場が弱い子どもから、ズケズケと聞いてはあれこれケチを付けるのは、あまりに想像力が欠如していて大人気ない。聞かれた側からすれば大きなお世話だろう。

 私が幼少時代の夢を叶えた側の人間だから記せる部分ではあるが、夢は追いかける過程が楽しいのであって、掴み取った瞬間に現実となる。その残酷さを知っているからこそ、ズケズケと聞くのは気が引ける。

 聞いてる側が幼少期の夢を叶えてもいない分際で、他人の夢をああでもない、こうでもないと、あたかも評論家のようにケチを付けている時点で、自分が子ども時代の夢を叶えられていない何よりの証拠だろう。

 もし「将来の夢」を聞かれたら、逆質問で先に聞いて予防線を張っておくのが得策だろう。大人こそ、子どもに対して背中という名の「夢」を見せるべきではないだろうか。

 大人が答えられない、若しくは現実的すぎて「夢がない」にも関わらず、子どもにそれ以上の回答を求めていることを見抜かれて、「お前らのような、つまらない大人にだけはなりたくない」と言われてしまえば、ぐうの音も出ない。

 その意味で、私はプロレタリアートから抜け出し、金融資産所得でプロレタリアートアートせずに暮らす姿は、「働きたくないでござる」が本望な子どもたちにとって、夢のある大人像を演じられているのかも知れない。


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