お金を使えば楽しい。それが資本主義。
金銭感覚がシビアで雪まつり行けない問題。
やっぱりどこも強気の価格設定だ…雪不足に嘆いている札幌で、雪まつり開催期間の1週間だけは、会場界隈の宿は満室か、もしくは諭吉(栄一)さんが何人居なくなるのか、考えただけで恐ろしくなるような価格帯の、コスパに見合わない宿泊施設しか空きがない。
一応、20代ではあるため、ネットカフェでも耐えられる年齢ではあるが、場所と時期を鑑みると、満室で難民になって野宿しようものなら間違いなく凍死するため、そこまでリスキーなことをするのは割に合わない。
そんなことを考えると、地元民でもない限り、大枚を叩かなければゆっくり立ち寄ることすら難しいと、貧乏旅行を得意とする身として痛感する。宿を経営する側の視点に立てば、これほどの掻き入れ時はない訳で、安売りする必要がないのは自明の理である。
雪まつりに限った話ではないが、ふとイベントを見つけて旅に出ようと思い立った際に、その望みを叶えるためには、資本を持っている方が叶えられる確率は高まる。
とはいえ、たとえ自らの願望を叶えるのに必要な資本を仮に有していても、その使い方が果たして有用なのか。得られるものは何か。そのお金を別のことに使った方が良いのではないか。と自問自答し始めると、妖怪先送りの仕業で、別に来年で良いかと同じ愚行を繰り返す辺りに、自らの金銭感覚のシビアさが仇になっている感が否めない。
限界効用逓減の法則。
そんな私を横目に、友人は福利厚生で遊園地のクーポンを手に入れたからと、私の居住地界隈まで子どもを連れて来て、メシでも食おうと約束を取り付けた。
私もスーパーの値下げシールには目がないため、気持ちはわかるが、「悩む理由が値段なら買え、買う理由が値段ならやめておけ」の格言にあるように、安物買いの銭失いでは有用なお金の使い方とは言えないが、他人がケチをつけるものではないことは重々承知している。
あくまでも自分軸の価値観に基づくと、あれが欲しいとか、あの場所に行きたいと元から考えており、それがディスカウントの対象になった状態が理想であり、逆パターンは安物買いの銭失いとなる可能性が高い。
タチが悪いのは、我々は往々にして金銭消費を自己正当化してしまい、その状態に陥っている認識そのものを捻じ曲げてしまう嫌いがあるし、資本主義社会もそちらの方が好都合であることから、何も考えずボーっと生きていると、お金を使えば使うほど楽しい先入観が植え付けられて、ラットレースの術中に嵌る。
経済学における「限界効用逓減の法則」にもあるように、財を1単位消費することで得られる(限界)効用は、単位が0→1になる時が最大であり、単位が増える毎に、某国民的RPGゲームのように「こうかは いまひとつの ようだ」と最初と同じ満足感は得られなくなる。
しかし、そんなまどろっこしいことを逐一考えてしまうと、衣食住といった人類の根源的な欲求を満たすもの以外で、お金を使おうと思えなくなるのもまた事実で、ちょうど良い塩梅を探りながら歳を重ね、死ぬまでに資産を使い切るのが見果てぬ夢ではある。
お金を使わず楽しめる趣味の重要性。
当たり前のことではあるが、我々が生きるこの資本主義社会は、金銭消費によって成り立っているのだから、金銭消費することが大前提でデザインされている。だから、お金を使えば楽しめるのは、この社会では当たり前のことなのである。
だからこそ、賃金労働者として社会に出て、毎月まとまったお金、いわゆるサラリーを得るようになると、それを使って楽しく生活するのが、あたかも基本姿勢であるかのよう振る舞っているのが社会のマジョリティ層だろう。
しかし、黒歴史でもなければ、ぜひ小学生の頃を思い出してみて欲しい。公立の学校であれば、お小遣いを同級生で一番貰っている、裕福で羨ましいと思っていた奴でも、毎月貰っていた額の程度なんて、たかが知れていると、いざ大人側の立場になってみると思わないだろうか。
毒親でもない限り、衣食住は無償で提供されていたとはいえ、スーパーやコンビニの買い物で使い切ろうと思えば、一度で使い切れてしまうような微々たる額を、月や年単位でやりくりしていた筈である。
思い出補正を差し引いても、今思えば微々たる額でやりくりしていたとは思えない程度に、大人になった現在よりも、コスパの面で充実していた毎日だったかも知れないと、体感的に思わないだろうか。
幼少期にお金はなくとも、身の回りにある資源を創意工夫することで、遊びを創っていたのが、いつの間にか娯楽は金銭を支払わなければ楽しめない先入観が植え付けられている。
その枠組みを一度疑ってみて、資本主義社会でお金を使わずに、どこまで楽しめるか争うゲームをやってみると、お金を使わず楽しめる趣味が見つかるかも知れない。無論、それにより蓄財は捗る。
あくまで私の趣向の域を出ないが、自転車とカメラは機材の沼にさえ嵌まらなければ、アウトドアの部類ではランニングコストが限りなくゼロに近い。インドアであれば、このnoteのような創作活動も条件としては似ている。読書は書籍代を公金に肩代わりして貰えるため、私金は投じないで済む。
もう少し裾屋を広げて、資本主義という名の巨人の肩に立つと、サブスクも初月無料などを使い潰す前提で渡り歩くだけでも、膨大なコンテンツを消化することができる。
最近では日本リスキリングコンソーシアムで、新規会員登録者は先着で無料受講できたGoogle Career Certificates(執筆時点では定員に達していないため、興味が湧いた方はggrks)に取り組んでいるが、これだけで6ヶ月もの間、普段とは違う領域を学ぶ形で楽しめてしまう。
決してお金を使うと楽しいケインズ万歳ではなく、マルクス半分、ケインズ半分な生き方が、一応は先進国で大量消費の恩恵に預かっている側の民族として、昨今のSDGs的にも良いのではないかと考える。
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