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男女の友情は恋の時効が切れた姿

私は恋愛感情がイマイチ分かってない割に、恋愛に関する記事を何個も書いている。それだけ過去に恋愛に向き合い、悩んだ経験があることの裏返しと捉えている。

この悩みの根幹には常に「男女の友情はあるのか」という問いがある。結論から言えば、私にとって男女の友情とは恋のなれの果てである。

この手の話にはよく人類史や生物学的な見地が絡みやすい。人間が他の生物と同様「種の繁栄を目的としている」と言えば生殖本能に絡めて恋愛について考えやすいからである。

だが私はこの理屈は人間に安易に当てはまるべきではないと考えている。なぜかと言えば、生物学的にオスは弱い立場にいるからだ。カマキリは生殖が終わればオスを食べるし、ライオンも実際に狩りを担うのはメスだ。

本当に生殖本能に絡めて言えば、人間のオスは子作りを終えたら捨てられるはずだ。だが、人間はオスが優位に立つように進化してきた生物である。それは生物学的な弱さの裏返しかもしれない。強く見せようとする者ほど弱く見えるとは、どのマンガでも描かれている。

話は少し変わるが、私には性行為欲のようなものはない。この手の話は公言するほどしたことがない奴の強がりに見えるかもしれないが…
だが、夜の営みのビデオを観るとそういうモードに自分が入る感覚が分かる。そして現実に会っている人にその手の感情が湧いたことがない。

つまり、私には生殖機能だけが備わってしまっている状態である。その欲求を向けたい対象が今後現れないと言い切るのは難しいが、出会う可能性は限りなく低いだろう。

故に、女性とはフラットな立場で向き合ってきたつもりである。その女性が私に性欲を向けられるかもしれないというある種の恐怖を抱いたケースは、私の視点からでは見られない。それもまた私が性欲のないことの証明と言えるかもしれない。

フラットな立場で向き合っている関係をここでは友情が成立しているとする。この友情が一度成立すると女性は目の前のオスをオスとして見なくなる。この瞬間に性的な男女関係が終了したと言える。これは社会的な去勢とも言えるかもしれない。

それに比べて、男の脳みそとはいつでもちんけなものである。男は理性や倫理観でオスを抑えているだけに過ぎない。だから女性がメスを出すと、途端に男の中のオスが目覚めるように脳みそが出来ている。

上記のような理論を展開して、男女の友情が成立しないという人が多い。つまり、男女の友情が成立するかどうかは意識の問題である。

では恋のなれの果てとはどういうことか。
これは一人間として見る場合を言う。この関係を築くための絶対条件がお互いの存在に慣れることである。

単純接触効果という心理反応がある。これは会う回数が多い人に対して好意的な感情を持つというものだが、この好意的な感情には上限があると私は考えている。

どんなイケメンや美人でも何度も見てるうちに最初ほどの感動はなくなる。私の知り合いにもイケメンがいる。最初こそ「羨ましい…」と思うほどだったが、今では「飲み会でよく見かけるハンサム」くらいの立ち位置である。

私の中で単純接触効果はゲージが増えるというより減るイメージである。そしてそのゲージがゼロに近づくほど人は安心感を持つ。その安心感こそお互いが慣れた状態である。要するに、目新しさを感じることがなくなった男女関係は友情性を持つのである。

友達になってしまった相手をドキドキさせることは出来るのか、という相談を持ちかける人も中にはいる。これに関しては女性の働きかけでなら出来ると考えている。

見慣れた格好でなければゲージは再スタートする。男の目新しさを演出することは出来ないことはないが、よほどのことがない限り難しいだろう。その点女性はメイクや服のバリエーションなどで見た目を変化させやすい。

だが、ここには重大な欠点がある。それはお互いがドキドキし直したい思ってないと失敗するということである。ドキドキ感とは、言い換えれば不安感である。お互いがドキドキしたいなら上記の作戦は成功するかもしれないが、片方だけの場合は確実に失敗する。せっかく手にした安心感を不意に手放されることに不快感が伴うことを避けられないからだ。

というわけで、性的な男女関係に友情はない。そして
男女の友情が成立する瞬間はその2人の間の恋が終えた時なのである。

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