見出し画像

修学旅行を歴史の勉強に仕上げる視点とは

修学旅行は学校での経験の中で最もインパクトがあるイベントである。普段の生活圏ではないところで出ていくワクワク感や、家族以外の人との初めての旅行という特別感が記憶に残りやすい要因だと私は思う。

私自身、高校の修学旅行はかなり苦い思い出がある。大阪、神戸、岡山、広島を3泊4日ほどで駆け抜けるというバスに乗ってる印象しかないものだった。これは修学移動といっても差し支えがないだろう。その中で私は友人と呼べる人がほぼおらず、部活が同じだからつるんでいた奴らと仲良い女子がバス内ではずっと喋っていて居心地がとにかく悪かったことだけが記憶に残っている。そんな苦しい思い出の中にもいい思い出ももちろんあるが、それはその時の天気や自分の機嫌がよかったりする部分が大きい。

さて修学旅行先はどっちかと言えば、勉学というよりも行楽に偏る。自分のお金で行くわけではないし、学校での勉強が退屈な学生にとって修学旅行は最も羽を伸ばすことができる機会である。

そんな修学旅行の形骸化している目的と言えば、「歴史の一端に触れる」という部分である。要は、勉強の一環として旅行する。

私は別に「勉強のない修学旅行は意味がないから廃止していい」なんてことが言いたいのではない。そもそも修学旅行前に歴史の勉強の意味を理解した上で旅行しているのか、もっというと学校の歴史の授業、ひいては学校の勉強は本質を習ってないのに学習などできるのだろうかと疑問に思うことがあった。そんな話を今回は書き記しておきたい。

私が勉強してて楽しいと思った瞬間は、その勉強の本質に触れた時である。例えば国語は日本語の表現の多様性を理解することである。だから小難しい小説やら評論を読まされるのだが、学校では文章の中身の読み解き方を学ぶ。つまり、読み方には鉄則があり、それが絶対の正解だという感覚を国語で学んでいる。英語もそうである。言語論とはその国の文化を学ぶことに直結する。だから日本語の表現を英語でするとどうなるか、という本が書店には多く並んでいるし、実際そういう勉強がやってて楽しい。しかし、学校では基本的は英文法と数多の単語を暗記することが主流である。もちろんそれも大切だが、これでは学習の意義を掴みにくいのは間違いない。

その極め付けが「歴史」であると私は思っている。歴史は何のために学ぶのかを理解していないと修学旅行は機能しないのではないかと私は思っている。私が思う歴史を学ぶ意義は生き方の変遷の推測である。

例えば、坂本龍馬が薩長同盟の立役者になった、という事実を暗記することが歴史を学んだことになるのか。答えは否である。なぜ土佐の坂本龍馬が薩長同盟という全く関係ない藩の頭同士の同盟に関与する必要があったのかを知ることが今の生き方に通ずるのである。坂本龍馬がどう日本を見ていたのかというその視点を学ぶことに歴史の面白さがあり、そのような歴史を動かすことにつながる視点はたいていどの時代でも通じるのである。

こうした本質をつくには知識がいるのは間違いないが、学び方を間違えると、歴史はただの暗記科目になりさがる。そして覚えられないから嫌いという思考に陥る。歴史は数学と同じでそれだけを覚えても仕方ないと学生は誰も思わないし、教師はそこを教えない。

現在の学校教育は暗記が主軸にあり、授業の内容を覚えた人がすごいという評価を受ける。だが、社会で認められる人たちは基本的に本質を突き詰めた人たちである。結局何をしたら人から喜ばれるのか、という視点を学ぶには歴史が1番重要だと思う。

こうした小難しい話を聞いて「難しいから考えなくていい」となってしまう現状は教育の失敗だと思う。私の周りにもこういう話をすると、「じゃあどうすればいいと思う?」と考えや答えを投げる人がいる。

その分からない部分を考えるのに必要な知識を共有して理解することに教育の意味がある。要は、教育とは世の中の前提となる基礎を理解することである。そしてそれを理解する努力を促すことだ。

学生時代の授業を聞いていて何となくつまらなさを感じたのは先生の説明が分からないからではなく、勉強内容がそもそも学習の本質から逸れているからではないか、と思った今日この頃である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?