セルフシップ

昨今は特に、若者の意識と思考の発展の機会は忙殺されやすい傾向にあると思う。
物質主義と精神主義が水と油のようにうまく混ざり合わず、肥大する物質主義の裏側で精神主義も独立性を高めている。
その原因に”各々が己の主義志向の枠外突破ができていないせいである”があると自分は思う。
精神主義は精神主義の軸を失わないまま、精神主義者が通るべきグラデーションのような層を上方向へと
突破しなければならない。当然物質主義者もそうである。

19世紀から20世紀にかけて資本主義が生まれ変わったように、分断されがちな物質主義と精神主義は高次の生まれ変わった後で、もう一度繋がりなおさなければならないのだ。
なぜなら、物質と精神は同じものの違う側面であるからだ。同じものの偏った側面しか眺めないと決めるのであれば
当然発展には制限が生じる。
勘違いされがちな点として、純粋に物質主義と精神主義が合算されていればいいというわけでもない。
”うまく交わる”必要があるのである。

切り分けた二つの果実という言葉がある。(ヨーロッパの言葉だったと思う)
文化的に加味すれば、この言葉はスピリット的な側面を強調する性質がある。
同一とされる魂が二つの肉体を持った状態を示唆している。
運命的な恋愛で想像される古典的なドラマや熱量は、これがもとになったと思われる。
(二つに分かれた一つの魂が運命を司るため)
切り分けた果実の片方と片方は、もとは同じであるが合わせれば単に合うものではない。
角度と位置という適切な構図が存在する。

奇跡を常とするエネルギー領域では腐った果実を元に戻すことができる。
つまり時空の理を無視した縦横無尽の変化と移動を適える。
腐っていれば治し、向きが違うのならば調整が必要になるのだ。

これが魂であれば、変化は基本的、自然的に起こるもので意識にこれをせよと迫る要項は幸いにも存在しない。
しかし分断された二つの側面の意識を繋ぎ合わせる変化は、必ず能動的な意思を必要とする。
なぜなら理性の強いバイアスを出生から常に受け続ける意識は未来に向かう前向きでクリエイティブな作業ではなく、過去の情報を記録し必要な時にサルベージするという機能を全うしているだけで完璧なのだ。
個性という色のついていない原本的な意識そのものがほかに望むものは何もない。

未来に向かう前向きな発想の転換やアイデアは広義におけるインスピレーションと理性の決定(意思)が担当する
プロセスである。

主義的な生まれ変わりと自我的な生まれ変わりはグラデーションを通して固定されているため、片方だけを変化させることはできない。
(意識的無意識的を問わず)既存のパラメータで機能する理性が矛盾を許せなくなるのだ。
理性は本来氷結している時間を融かし再生する機能を持っている。
ボールを投げたから転がっているのであり、”ボールが転がるために自分が投げたわけではない”と考える。
前述した通り、一つのものの片方の側面だけを捉えるということは真実との分断を指し示しめしている。
”自分が投げたからボールが転がっているのであり、そしてボールが転がっているために、自分が投げたのだ”という
宇宙的な全体像をとらえることを拒否する。

これは純粋な逆説論的構造をとっているわけではない。
我に囚われた視点では、一方方向への観測しかできず手に入る情報が偏るのだ。
個として存在する自我は自我が表出しているフィールドがどういった性質を持っているかを鑑みなければならない。
慣性の法則は保存された移動エネルギーが活動している間のみを指しているわけではない、静止しえるものが静止している状態も慣性の法則の枠内なのだ。

超常的な意識状態では、時という幻想を打ち壊した経験をすることがある。
時の幻想というものは物語の順序を司る。
片方が片方に、という視点は宇宙的真実ではない。片方が存在するとき、もう片方も同じ側面を持っているのだ。
自分の中に見える悪(悪の定義は前記時参照)と善が自らの鏡像にも同じように見出すことができるように、世界は時折
入れ子構造的映え方をする。

もし、自己というものの扱いが杜撰であった場合(丁重であった場合でも)その杜撰さの表現は自己内と自己外、
同じ尺度で描かれることになる。
「自分を変えようだって?それは、世界を変えた後でも遅くはないよ」
これは昔に自分が書いたジョークである。

重要なのはどちらを先に変えるかという順番ではない。
本当に伝えたかったのは、「世界がどうなっていくのか、世界がどんなことになったと憂う人がたくさんいるのに、自分の意識を変えることに本気な人はいない。どちらも同じことなのに。」というメッセージである。
これはそれをシニカルに伝えたのだ。
劣等感から自分の行動や性質を変えようとする人は五万といる。しかし人間的な自己の意識を変えようとする人はいない。
社長になったから社長の意識を、男性だから男性的な意識を、被害者だから被害者的な意識を。
外から与えられた役職や立場によって適切と思われる意識をインスタントにこさえるだけである。
そうして恣意的に想像された意識が人間的な自己の意識に侵攻してゆくのだ。
つまり自分は誰かに想像されたものであり、自分が創造したものではない、という状態ができあがる。
これは常に無限の可能性を持つ人間という性質の殺害に他ならない。我々は発展を使命とする。
人類史上の文明だけではない、各々の自我も同様に。

精神の不足は物質的不足を指し、両者は一方方向に関係を持っているわけではない。
相互に影響を与えている。
我々が精神主義を語るとき、それは理を通して己の在りようを語るときである。
己の在りようという題材を扱わないものに、あらゆる主義主張を扱う正当な権利は存在しない。
なぜなら主張主義は生きており、生きている限り変容を使命とするからだ。
嫌悪され淘汰された資本主義が(一時的にであれ)生まれ変わったように。

既存の自己という枠組みを飛び越え高度に発展した精神主義、物質主義は、過剰なバイアスを創造しない。
あらゆる側面を持つ自己の過剰なバイアスを弛め、それぞれが分断された側面を統合することができる。

上記の理念は、自身の哲学的体系の中では「セルフシップ」という題名が与えられている。
友情(friendship)、親子関係(kinship)、リーダーシップ (Leadership)。
これらの言葉はすべて外への向きを指している。リーダーシップも外から求められるリーダー像から強い影響を受ける。
英語圏の文化では内との関係よりも外との関係を重要視してきたという背景が察せられる。
自己との対話や自意識の変革の文化は世界規模でも散見されてきた。
しかし”自由な”自意識変革の機会と技術は世界的にも類を見ることはない。(自分が知る限りではあるが)

考えるに、人類はセルフシップ、つまり自己との関係を長く蔑ろにしてきた。
教えてくれる人がいなかったからだ。
教えられるのは社会的、道徳的、性別的、長男的、家族的、といった枠割を果たすための功利的な自己像しかなかった。
教える人もそういったものしか受け取ってこなかったからだ。
それぞれが人生を通して勝手に、そして極めて自然的に創造されるものであり、鮮やかな自己像を取得する機会も
与えられる機会もなかったのだ。

不思議なことに、人は鮮やかな自己像を描くことができなくとも、鮮やかな他者像を想像することはできる。
そのプロセスは一般に言う羨望という感情が事実から大きく飛躍して着地させる。
そのため発展的なイメージ像を創造することに役に立つことは滅多にない。
大抵人の不理解を嘆くだけに終わる。

では、鮮やかな自己像はどうやって想像されるべきなのであろうか。
手法に触れる必要はない。特異なものではないからだ。
論ずるべき重要な点は、『鮮やかな自己像を描くには何が必要か?』である。

自分はまずもって切り離せないのは自己信頼であると考えている。
信頼そのものよりも重要なのはそれに裏付けされている自己不信感である。
これが自己像を描くときに大きなノイズとなって登場する。

不信感、これは新たな自分を描くとき、強力なブレーキの役割をなす。
解消は難しくはない。過去を忘れ、自由を信じるだけで適えることができる。
未来の自由を信じることは、今の自由を感じるところから始まる。
感じることのできた自由が自然と不信感を拭い去ってくれる。

感じた自由と自己像、不信感と拘束感は必ず同居している。
同居した片方に与えられた影響はもう片方にも影響を与えるのだ。

そうやって、押し付けられた既存の自己像から解放への素地が出来上がる。
いわばセルフシップとは、「自分をどれだけ信頼できていますか?」という文言によって図ることができる。
その信頼感が自分を自由へと後押しするのだ。

セルフシップ、自己との関係は、生涯を通して調整する課題である。芸術的作業であるため終わりがない。
もしこの作業に終わりが来るとすれば、宇宙の果てに終わりが来て自己が完全に停止するときか、自由を諦める時である。

「あなたは何でもできる。叶えられないことは何もないのだ。」

鮮やかなセルフシップは自らを通してそう教えてくれている。

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