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世界激走 アメリカ編プロローグ

オーストラリアから帰って間もなく、今ではどうか分からないが、当時は、大学卒業前の2月ぐらいから、普通に働きだし、卒業式だけは、会社を休んで、卒業式に出るといった感じだった。
その頃は、まだ、高度成長期の名残と、いった感じで、とにかくエンジニアが足りていなくて、まして、当時業界で強かった安川電機関連に就職したこともあり、始めから、大きなプロジェクトに関わることになった。
その頃、何本も大きなプロジェクトが複数同時進行していて。
当時まだ、日本にへーこらしていた、三星電管のブラウン管の製造ラインのプロジェクトを途中から任されることになり。
大学生の頃は、あれだけ、休みが少ないとか、時間に拘束されるのを嫌がっていたのだが、オーストラリア効果か、信じられないくらい働いた。
とにかく、僕一人で仕事を進めるわけではないので、僕一人のスキルが低いと全体に影響してしまうので、ものすごく勉強した。
学生時代から、この勢いでやっていたら、もっといい学校に行っていたかもしれないが、大学卒業までやっていたことが、勉強ではなかったんだと、この時気付いた。
あれは何だったんだろう、ただノートに字を書いているだけの作業でしかなかったのかもしれない。
小学校から、大学までづっとだ、勉強なんてしていなかったんだ。
オーストラリアで得た経験なんだろう、迷わず突き進め的な感じで、とにかく勉強し仕事した。
まさしく、人の倍は働いた。
今では、絶対に許されないが、土日はほとんど休まず、毎日残業。
月の残業時間は、毎月200時間を超えていた。
僕の計画では、1年間きっちり仕事をやり、100万貯め、そのお金で、世界放浪に行こうと考えていたが、そんな勢いで仕事をするもんだから、そんな勢いで仕事をするもんだから、1年も経たずに100万なんて、夏ぐらいにはすでに溜まっていた。
で、それだけ仕事をやると、不思議なもので、仕事もすぐ覚えるし、仕事が楽しくなってきてしまった。
もしかしたら、ワーカホリックだったかもしれない。
だって、仕事しながら気持ち良くなることが、しばしばあった、主な作業は、当時出始めのPLCという工業用のコンピュータのプログラミングなのだが、仕事に夢中になると、ある時点から仕事がすごく早くなってきて、頭が冴えわたってくのが分かる、そうなると、気持ちが良くなる、たぶん、脳内にドーパミンが出てるのかなとか思っていたが、とにかく仕事をやればやるほど、仕事が好きになっていき、仕事も出来るようになっていく。
お金が貯まった夏には、仕事を辞めようという考えは薄くなっていたが、当時働いていた会社が、社長が病気になり、2代目問題でゴタゴタシし始め、僕が、生意気だったせいもあるとは思うが、その2代目とそりが合わず。
会社のNo2だった営業の人と、設計の一番優秀な人と3人で、独立することとなった。
会社のNo2だった営業の人と、設計の一番優秀な人と3人で、独立することとなった。
何だか意外な展開だ。
当時は、バブルの時代で、仕事は、いっぱいあり、独立した僕についてきてくれる会社も、何社かあり、
そのうちの2社が、当時、北米のオハイオにホンダが工場を作っている関係で、けっこう頻繁に、オハイオに出張があった。

よくアメリカ出張に行っていた頃
今は、無き、昭和アルミのコロンバス近郊の工場

自働車のメインラインは、絶対に停められないので、何か不具合があると、次の日オハイオまで来てくれってな感じで呼び出されることがあった。
当時は、携帯がまだ普及していいので、行き先をちゃんと分かるようにしていて、スキーに行ってて、スキー場のホテルに電話があり、呼び出され、翌日、家の最寄りの駅まで、旅行代理店の人が、航空券を持ってきてくれて、パソコンだけ持って、そのまま、オハイオに行ったりしていたので、その頃の僕にとってアメリカは、割と近い場所のように感じていた。
そしてまた、ウズウズし始めた。
で、仕事は面白いものの、世界を車で走るということは、頭からは離れず、次はアメリカだ、とオーストラリア1周した後から、づっと思っていた。
社会人1年目の時から、結果を出すもんだから、僕は、けっこう我儘を言える、ようになっていて、実は、この時、バブルという時代もあり、仕事もしないで、お金を稼げるという、変なシステムがあり、前の僕なら、それを甘んじて受けていたかもしれないが、僕は、仕事が好きで、本当に仕事をやりたかったので、世代が違う他の二人と少しづつ、方向性の違いが出てきていて。
辞めようかななんて思っていて、辞めるの覚悟で、3週間の休みを取り、オハイオ出張のついでに、アメリカ1週の計画を立てた。

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