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■コラム【 あるがままは、はたして芸術か? 】

【 村上隆 もののけ 京都 】鑑賞して来ました。

 じつはあまり村上さんのことが好きではなく期待もしてなかったのですが、世界がこれほど認めているのだからなんぼのもんじゃと確かめに行ったというのが動機になってます。

 ところが見事に完敗いたしました
圧倒的なクオリティーを見せつけられ、自分の偏見を恥じたのです。
 村上さん ごめんなさい。

 ただ少し他の人と感動の仕方がちがうのかも。感心したというのが正しい言い回しです。普通にアートとして感動したより「そうかそういうことか」と魅せ方に感心したのが8割。

 表紙のようなアナログ作品は圧巻の一言ですが(こういうのも描かれるんですね!)特に世間を賑わすスーパーフラットと題されたデジタルアートの数々。残念ながらネットやメディアを介してみるだけでは村上作品の価値は伝わりにくい。

 実際の目で、出力されたリアルの実物を見ないことには ぼくのように偏見に彩られたままでしょう。

 アウトプットされた実物は、すごい綿密な計算と支援労力、お金がかかっていることが見てとれます。それを成してしまうほど彼が実力を持ったということの現れなのでしょうが、にしても完成されすぎの美しさ(美術)がある。

 ぼくは今回はじめて本物の村上作品に触れて、

自分の関心ごとである「障害アート」に思いを馳せました。


 そのまま何のあしらいもなしに展示しては価値が伝わりません。美術展に展示される作品には必ず何らかの色付けがなされています。たとえば額縁。作家のものではない場合がほとんどです。けれども額縁があるのとないのとでは全く輝きが違いますね。輝きつながりでいえば照明もそうです。あまり意識してませんがすべての演出込みで芸術を愛でているのだと思います。

 それを思えば障害アートがいかに色付けされているかお気づきになるでしょう。彼らは良く言えば「無垢」ですが、変換すれば何も狙いがない

 支援者のなかには〝あるがまま〟を都合よく解釈し、何もしないことが一番の支援と取る人がいますが、ぼくはちがうと思うんです。ちがうというか危険な捉え方じゃないかなと。
 もちろん障害の特性によってはそれでうまくいくケースもあります。けれどもすべてのケースが当てはまるわけではない。しっかりと道筋を定めてあげてそれで自分から歩けるようになればそれは支援として正しいあり方なんじゃないかと。こだわりの程度がひどくイヤがるから好きにさせるというやり方は責任放棄。こだわりの先を好ましい方向へ向かわせることは可能なはずです。それは生活だけでなく障害アートにも通じる考え方だと思うのです。

 〝あるがまま〟じゃ、無秩序だし、美術としては不快。だとすれば支援者が横に入ってある程度良かれと思う方向へ道筋を立ててあげる。他者の手が入ったから、もう障害アートとは呼ばないというのであれば、それはそうなる。けれどもそこ突き出すと施設などで生産的に描かれた絵画のすべては障害アートではなくなります。作業も生活介護の仕事のうちなので必ず何らかの支援誘導がなされるからです。ぼくは6、7年も現場みてきましたから想像で言っているわけじゃありません。みんな語らないだけで仕事として描けない人には描かす現実があります。

 公募展を鑑賞すると、それを知ってる知らないで 大きく作品の出来が違うことに気づくでしょう。支援者がどこまで深く関わっているかが肝です。

 先述したようにあるがままで野放しに描かれた作品はたしかに野生味があって魅力的ではあるのですが作品の完成度としてはイマイチです。それで光る作品がつくれる人は、ほんの一握りの天才と思ってください。

 考え方は一般の人と変わりません。プロでも編集の人などの手が加わりクオリティー高めのものが世に出るでしょう。他の人の協力を得て そこまで苦心してやっとプロデビューできる人も多いのです。

 障がいを持つ人も同じです。知的に遅れがあったりで考えても自分で狙いをつけられない分、余計に支援が手厚く必要になるのです。

 公募展に飾られた作品群にはそういうストーリー性がある。画材が工夫されていたり、額縁に手が込んでいたりする作品は、「あぁこの利用者さんは愛されてる。しっかり支援されているなぁ」と感心するのです。

 もちろん ぼくの考え方に異論を唱える人もいるでしょう。すべての「障害アート」が無垢であるべきだと。でもそれは理想を言っているだけです。

 人はつねに美を求めますから 美が足りないものには美を見出せる何らかの魅せ方がいる

 もし神様がいるとするなら無秩序なラクガキみたいな絵にも価値を与えるかもしれない。あるいは審美眼を持った審査員が奇跡的に原石を見つけてくれるかもしれない。全面的に無垢を否定して消し去るのではなく むしろ高めてあげるといった方が伝わるかもしれない。

 主役は作者であり 支援者はあくまでセコンドです。

「障害アート」において
支援者(セコンド)はデザイナーでなければならないのかもしれません。

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