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大学院の指導はどうなっているのだろう?

大学院で学んでいたとき西アジアの国から来ていた国費留学生の女性と親しくなりました。彼女も私も博士課程に在学していました。彼女とお互いの研究のことを話していて気になったことがあります。大学院での指導についてです。

彼女は首都圏の教員養成系の大学院で修士課程を修了していましたが、教員の指導がほとんどなかったと言います。修士論文も執筆し学位も取得しているのですが、指導教授はゼミで顔を合わせるくらいで個人的な指導はほとんどしていなかったそうです。自分から相談に行っても彼女の研究内容が教授の専門分野ではなかったので、適切な指導は得られなかったと言います。研究は院生仲間で勉強し合いながら進めたそうです。

彼女の修士論文を見せてもらいました。50ページにも満たないその論文は失礼ですが卒業論文と思えるものでした。日本語で書かれていましたが、何よりも誤字脱字の多いことが気になりました。日本橋を母語としない彼女ですからミスはあります。ても指導教授がちゃんと目を通していればあれほどの誤字脱字はないはずです。博士課程ではなく修士課程です。さらに彼女は留学生です。最低限の指導も行われていないように感じました。

同じ大学院で履修した別の友人にも話を聞きました。彼女は日本人で公立小学校の教員です。現職教員向けの1年コースで修士号を取得しましたが、やはり教授の指導はほとんどなかったと言います。彼女はカナダの教育について研究していましたが、きっかけは教員研修の一環としてカナダを訪れたことでした。彼女の場合も指導教授の専門は英語教育でカナダの教育ではありません。院生の研究と指導教授の専門が一致しないことはもちろんあると思います。特に文系の場合はその方が多いかもしれません。でも研究指導はできるはずです。いや、しなければいけないと思います。研究方法や論文の作成方法など基本的な指導は必要です。そのうえで、院生は自分の力で研究を進め、必要に応じて教員に相談するのが一般的ではないでしょうか。さらに驚いたのが彼女の修士論文です。40ページほどのその「論文」は彼女が教員研修でカナダに視察に行ったときの報告書そのものでした。彼女の場合も必要な指導が行われていないように思いました。そしてこのような大学院が現実に存在することを知りました。

修士論文が玉石混交であることは私自身が多数の論文を調査してわかっています。修士論文を書く際に私は複数の大学で提出されていた過去の論文を片っ端から閲覧しました。そして感じたのは修士論文と言っても内容に著しい差があるということです。内容も分量もまちまちで、中には博士論文とも思えるような立派なものもあれば、卒業論文かと思えるようなものもありました。授業の課題レポートのようなものもありました。私が専門とする比較教育学の分野でも、海外の政策文書をただ翻訳しただけのもの、先の彼女のような海外調査の報告書のようなものもありました。いずれも審査に合格しているのでしょうが、大学によって基準がまちまちであることを認識しました。これらをすべて「修士」として認めてよいのか疑問に思います。


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