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三宅唱「夜明けのすべて」

ある時期まで、中学2年生の頃にもらったラブレターを大事に定期入れの中に入れて携帯していた。誰かが自分に対して関心を持ってくれている、という事実だけでなんか救われた気がしていたし、少なくともその手紙にはその事実を裏付けるだけの力があった。流石にその手紙はどこかのタイミングで机の中とかに移動したわけだが、受験やなんやがあって、気付いたらどこかに行ってしまった。

三宅唱「夜明けのすべて」も、いつかもらった手紙と同じくらいの距離感で自分の中で存在し続けてくれる映画になりそうだ。この映画は眼差しの優しさで溢れている。そして、眼差すだけのところから少し踏み出そうとしている。主人公の2人が交す視線。「男女の友情」みたいな陳腐な話は置いといて、ただ相手を理解しようとし、相手を思い何かを渡し合い、それでも過度に干渉しない距離感。

上白石萌音が演じる藤沢さんは山添くんの髪を切り、漬物を渡し、自転車を渡す。優しくあろうとする時に僕は「何もしない」選択肢を取ってしまうんだけど、藤沢さんはそこから一つ飛び越えて、形として何が出来ないかともがく。そうして渡したものが物語でどう作用するか、の描き方も好きだ。電車や車に乗れない山添くんは貰った自転車を持って坂を登り、トンネルを潜り、公園の周りをぐるりと一周する。山添くんは直接的に「自転車があって良かったなぁ」なんて野暮なことは言わないけれど、歩くより早い自転車に乗って、流れていく街を噛み締めるように眺める。松村北斗が自転車に乗ることで電柱と電柱、ビルとビルの間が狭まり、街の構造が見えてくる。映画のリズムが加速する。そして初めて藤沢さんの家に行く。その白い自転車に乗って。相手を眼差し、そこから一歩踏み出すことで世界が広がっていく。その当たり前のような、それでいて改めて振り返ると失われてしまったものを淡々とカメラの中で積み上げていく。それを残そうとする監督やスタッフの眼差しの確かさも筆舌に尽くし難い。

眼差す、といえばこの映画で重要なモチーフになっているのがプラネタリウムと夜空だ。映画を通して2人は街を包む夜空に対して思いを馳せる。ただ光っている星が他の星の存在があることで星座として意味を与えられる。そして星の観察を通して星の光が地球まで届く500年間に思いを馳せる。このプロセスは映画の中の藤沢さんと山添くんそのものじゃないか。お互いや栗田科学に出会うことで居場所が見つかり、これまでの歩みを肯定できる。後半、栗田科学の社員として居続けることを決めたことを元上司の渋川清彦に伝えるシーンや栗田科学の服を初めて羽織り自転車を乗って藤沢さんの家へ忘れ物を取りに行くシーンがある。こういった物や思いの受け渡しと視線の交わりが、無駄な言葉を削いだ上で星座のように緩やかに観客の上にそっと浮かび上がる。

良い映画ってなんだろう?と考えることがある。2時間ひたすら物語が加速していくように進むノンストップムービーも、無駄なシーンがのちに伏線だったと分かるようなものも好きだけどあまりに過剰だし、主演の俳優がメッセージをソーシャルメディアで伝えた方が効力があると思えてしまうような作品は意味や役割の必要性は理解できてもストンと胸に落ちてこない。細かな描写を重ねて人と人との関係をゆったりと立ち上がらせて、映画的マジックで優しく映画館の出口に向かう私の背中を押してくれるような、「夜明けのすべて」という作品は僕の中の「良い映画」そのものだ。山添さんと藤沢さんが交す視線、その2人を見守る大人たちの視線、皆んなを包む街、それらを逃すまいとカメラに映す監督の視線と、それを包括する映画という営み。色んなものに思いを馳せつつも、この映画みたいな景色は日常にもあるんじゃないかとまだ思える。エンドロールのクレジット。ボールは散歩してる我々のもとに飛んでくるかもしれない。見終えた後に向かった新宿御苑は暖かい日差しに覆われていた。


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