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宇多田ヒカル「BADモード」感想:ポップであること・アルバムであること

 1月19日に日付が変わった瞬間に宇多田ヒカルの8枚目のオリジナルアルバム「BADモード」が解禁され、SNSではさながらリスニングパーティーのような盛り上がりを見せた。誰しもの期待感は"人間活動"を終えた宇多田ヒカルがリリースした2作「Fantome」「初恋」の傑作ぶり、コロナ禍において数ヶ月のスパンで配信、あるいは断片が公開されていたた楽曲の充実度、そしてA.G.CookやFloating Pointsといったポップミュージックの最先端を往くプロデューサー・ミュージシャンの参加等様々な要素から来るものであろう。
 とはいえ99%の期待と共に1%の懸念があった。トラックリストが公開された時点でボーナストラックを除いて完全新曲は3曲、CMで一部が解禁されていた「Find Love(キレイな人)」を入れて4曲、ということだ。ディスコグラフィー内諸作で見られたアルバム全体の統一感、というものに欠けたプレイリスト/ベストアルバムに近い感触になるのではないかと。「PINK BLOOD」「One Last Kiss」「君に夢中」などはタイアップ曲として抜群の強度を携えており、1曲単位で完結しているように思えて、改めてアルバムのいち要素として提示された場合自分がどう反応するのかが想像出来なかった。自分如きが懸念とか言って何様だよ、という話であるが。

 一聴した感想だが、90年代の終わりに華々しいデビューを飾り時代の寵児となったアーティストが20年代に入ってもなお、「ポップとは何か」を再定義するような作品を発表することができる異常性に舌を巻いてしまった。

 ポップミュージックの一つの役割にアーティストの個人的な事象を描きながら時代の雰囲気を反映させその時代を象徴する、というものがあると思う。リード曲「BADモード」における「メール無視してネトフリでも観て/パジャマのままで/ウーバーイーツでなんか頼んで/お風呂一緒に入ろうか/何度自問自答した?/誰でもこんなに怖いんだろうか?/二度とあんな思いはしないと祈るしかないか/今よりも良い状況を想像できない日も私がいるよ」という歌詞は、日記のように個人史を綴りながらコロナ以降の「閉じた」ムードを歴史に残すという役割を全うしている。
 また、このアルバムは星野源やサカナクション山口がトライし続けている「ポップミュージックを介してリスナーにより上質な音楽体験を与える」ことにも寄与している。軽やかに響く宇多田ヒカルの歌声は耳馴染みがよく、前作、前々作同様の軽やかなフロウの質感も含め歌声やボーカリゼーションが一番の魅力と言える。それは比較的ボーカルが注目されがちな日本の音楽シーンにおいてここまでの人気を得た理由の一つでもあるだろう。一方でFloting pointsとの共作で生まれた、打ち込みと生演奏の間で構築されるエレクトロニカ/アシッドハウス/トリップホップのように捉える事が可能なトラック、そしてアルバムの本編ラストを飾るディープハウスなどは日本のメジャーシーンの音楽では聴き馴染みが薄いものである。宇多田ヒカルという存在を通して(意識的になのか、無意識なのか、結果論でしか無いのかもしれないが)リスナーの新たな音楽の扉を開こうとしているその姿は、あるべきトップアーティストの形ではないだろうか。かつて「ヒカルパイセンに聞け」という企画における「アーティストとして自分が作りたい曲を作りたいですか?みんなに共感されたい曲を作りたいですか?」という質問に対する「それを両立させるのがプロなんじゃねーかな。」という答えに改めて納得させられてしまった次第である。

「BADモード」はアルバムという形態の持つマジックを改めて提示した作品でもある。私はアルバムに対して、曲が並べられた結果根底したものが浮かび上がるようなものであって欲しいと思っている。シングル曲がアルバムの中に据えていたら、アルバムの中に存在していることで新たな意味や役割が付与されていて欲しい。そして「名盤」と呼ばれるものは少なからずそんな要素を持つ。シングル曲が半数以上を占める「BADモード」にそんな「アルバム」のマジックを求めるのは難しいかな、と思っていたら杞憂に終わった。リード曲「BADモード」を起点にシングル曲が並ぶことでそれらの持つ共通したテーマが浮かび上がる。それは二人称で綴られるふたりの距離感である。「親と子(BADモード)」「愛するあなたと自分(君に夢中)」「自分と他人(PINK BLOOD)」「二度と会えないふたり(One Last Kiss)」。さらにこれらは男女の関係ではなくあくまで人間と人間の関係のように聞こえ、宇多田ヒカルのパーソナルな部分が表れている。シングル曲を改めて提示することで作家性がまじまじと浮かび上がる。これがアルバムの持つ抗えない魔力なのだと実感した。
 先ほど「ふたりの距離感」と書いたがこの「距離感」に近い"隙間"や曲と曲の切り替りによって生まれる"静寂"、言葉を詰め込まないことで生まれる"間"もこのアルバムの凄味に一役買っている。「BADモード」において一定に刻まれていたバスドラムの音が消える瞬間、「One Last Kiss」における「なんてことは無かった/わ」という譜割り、「気分じゃないの」と「誰にも言わない」の曲間の一瞬の静寂。ハッとさせながらも足し算ではないから過剰にならず、自然で、突然の喪失のような少しの寂しささえ覚える。

 白眉はやはり本編ラストを飾る「Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー」だろう。ミニマムなディープハウスに合わせ歌われる「僕はロンドン、キミはパリ/この夏合流したいね」という一節は2020年代・コロナ禍における他人と会えないムードであり、先ほどの「ふたりの距離感」をも描いてもいて、私がこのアルバムに感じた特性みたいなのが表現されている。そしてEDMでいうところのビルドアップを越えドロップに入り、「オーシャンビューの部屋一つ 予約」と歌われ、バラバラな地にいた二人はいつか出会うであろうことを予感させられる。希望ある未来への祈りである。「マルセイユ辺り」の後半は宇多田ヒカルの声にエフェクトがかけられ、トラックと一体化したような印象を受ける。ロンドンとパリにいたふたりはどこかで出会う未来へ向かい、声とトラックは一体化し、数分に渡って永遠に続くかのようなダンスビートによってこれ以上ない陶酔感が生まれ、リスナーと「BADモード」という作品も一体化する。「Ultimately, music is a shared language.」という宇多田ヒカルの言葉通りのひたすら鳴っている音だけが気持ちいい、そんな感触で本編は終わる。

 ボーナストラックの「Beautiful world(Da Capo Version)」に関しても「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」で鳴らされた時の感覚が蘇える。これはアルバムの本編後という場所に位置しているからこそ生まれており、アルバムに収録されたことで「エヴァンゲリオンシリーズを総括する鎮魂歌」以上の意味合いが付与された。アルバムの持つマジックのようなものがここでも現れている。

 宇多田ヒカルが常に新たな音楽を作り続けるポップスター「宇多田ヒカル」であることにどこまでも自覚的で、一方でその根底にあるのは音楽への愛や好奇心、強い探究心をもった一個人の「宇多田ヒカル」でもあって…という二つのモードを、コロナ禍という時代のムードとともに作品に落とし込んだ大作、傑作、名盤だと思います。

最後にめちゃくちゃ良かったインタビューを貼って終わりにします。



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