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「心配の無い世界」に行くのは、死んでしまってからでもちっとも遅すぎないのではないか(連続投稿699日目)。

 よく「心配事のない世界」とか「不安のない世界」に行きたいと言う方がいらっしゃる。角が立つので実際に声に出しては言わないが「大丈夫です。あなたも私も100%の確率でいつか殺してもらえるので、その時に心配事も不安も無い世界に確実に行かれますよ」と言う言葉が喉まで出てくる。

 つまり「心配できる」のも「不安になれる」のも生きているから。なんなら「死ぬ事」だって生きている人の特権なのだ。既に死んでしまっていたら、そもそも命が無いのでそこから更に死ぬことは不可能なのだし。

 まあ何が言いたいかと言うと、生きているうちにポジティブな事も、トホホな事も存分に楽しもうよ、と言う事。気分が上がったり下がったりを経験できるのもまた生きているからこそ。つまり我々は毎日24時間、自分に起きる全ての事から「生きている実感」を得ることが出来るのだ。これってよく考えてみると、かなり凄いことなんじゃないか、と改めて思う。

 個人的に僕は、どんな生き恥をさらそうと、無様な生き方をしようと、生き延びている人の勝ちだと思っている。スラムダンクでは無いが、試合が終わってしまうまではまだ何が起きるかはわからないので、大逆転の可能性だって残されているはずなので、どんなに大量点差で負けていてもそこで諦めてしまっては元も子もない。

 という訳で僕は「心配事」や「不安な事」にも「生きている実感を与えてくれてありがとう」と感謝しながら生きて行きたいなあ、と今は思っている。全てに満足して何もかも思い通りの人生なんて、考えただけでもつまらなそう。色々と上手く行かない事と「こんちくしょう」と格闘しながら生きる事にこそ人生の醍醐味があるのだと、信じて疑わないんである。


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