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私は新聞部だった。 part.1

 私は新聞部でした。私が所属していた3年間は県で最も優秀な成績をおさめていました。それは紛れもなく部員のえげつないほどのポテンシャルが故でした。同級生は5人で全員個性的でした。顧問の先生も、副顧問の先生も、先輩も、後輩も、全員個性的でした。賢くてユーモアのあるメンバーに恵まれた部活動は、思い返せば非常に幸せな3年間だったと回想します。

 月に一度の発行は本来それほど忙しいものにはならないが、締め切りギリギリまで無駄話をするので後半はバタバタしていました。同級生の部長がピリピリするので普段はダラダラしている私も流石にちゃんとやりました。完成するといつも「先月より良い出来映えかもしれないなぁ」と思っていました。私たちにとって新聞は芸術作品に近いものでした。

 この芸術には校閲というプロセスを踏まねばなりません。誤字脱字は到底許されない。それだけで賞を逃しかねませんし、というより、もはや使命感のように校閲をしていました。「誰も気がつかないような大物誤字を見つけてやろう」と皆舐めるように新聞に向かっていました。私はこの作業を新聞の洗練だと思っていました。

 こんな生活をずっと続けていたが為に、日常でたまに見かける誤字を赦すことができません。自分が「誤字る」こと、そしてそれに気がつかなかったことが最も悔しいのは当たり前ですし、誰かが適切に日本語を使っていないのを私はどうしても気持ち悪いと思ってしまいます。「どうして使う前に調べないの?」「使い分けが正しいかどうか気にならないの?」といつも思ってしまいます。例えば、つい先日読んでいた理学書にこんな文章がありました。

「電子は原子核の回りを回っている」

これには腹が立ちました。だって「まわり」には「回り」「周り」「廻り」があります。漢字は果てしなく多いのでこれ以上あると思いますが、大きく日本語はこの3つを使っているでしょう。書き手が「回り」と書く際、これがあっているかどうかが気にならないのは私にとって不思議です。私なら絶対に調べます。これは正しくは

「電子は原子核の周りを廻っている」

だと思います。違っていたらめちゃくちゃ恥ずかしいですが、すかさず私はその文章の傍らに訂正を加えました。こういった無駄なストレスが増えているのが元新聞部の性であり弊害です。

つづく

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