見出し画像

【大好きな父⑤】最期の言葉は「ありがとう」

父は放射線治療を終えて、退院の許可がでた。

主治医から、「自宅に帰れるのはこれが最後になるでしょう。なるべく長く過ごせるといいですね。」と言われた。


在宅介護の環境を整えるため、「末期癌」で介護保険の申請をした。要介護認定調査をなるべく早くお願いした。


私は一人で父を看病していたため、介護保険がおりてヘルパーさんが来てくれるまでの間、日中父を自宅で一人にはできなかった。

祖父母に頼んで、自宅から40分程の距離にある祖父母宅で平日の5日間を預かってもらうことにした。



私は毎日、仕事が終わってから祖父母宅に寄り、父の顔を見て、自宅に帰った。


金曜日の夜、父を自宅に連れて帰り、日曜日の夜に祖父母宅に預けに行くという生活をはじめた。

父の両親は、高齢だがそれなりに元気で、兄も同居していたたため、昼間は安心して任せて、仕事をすることができた。


有り難かった。


ただ、父の顔を見て帰るたびに、「明日は何時に来る?オレはお前に会えるな?明日も会えるな?」と確認してくる父がいて、父の心細さをひしひしと感じた。



その頃父は、脳の放射線治療を終えていたのだが、病の進行は早く、再び幻覚をみるようになっていた。

祖父が私に、「あいつは、いよいよおかしくなったみたいだ。」と呟いた。「鉄砲が…」「ミサイルが…」と言い、昼間も怯えているとの事。(かわいそうに)


物忘れもひどく、混乱していた。


メモ用紙に今日の出来事、誰に会って何をしたか、何を思ったか、明日何をするか、を常にメモしていた。


私の顔を見ると、「おお、来たか。今日はな、(ごそごそとメモ用紙を探して)あ、これとこれをしたんだ。明日はこれをしなきゃならない。」等と一日の出来事を話してくれた。


そして、「明日もオレとお前は会えるよな?」の確認。胸がきゅーっと締め付けられて、毎晩泣きながら自宅に帰った。



いつまで会えるのだろうか。
いつまで一緒に居られるのだろうか。



日に日に病状が悪化する父を見ていて、涙がとまらなかった。


そんな生活を10日間くらい続けたある日、祖母から「今日はニコニコしているんだけど、様子がおかしい。一人一人に『ありがとうね(名前)』『ありがとうな』と何度も言い、握手して回っている。」と。



・・・・・(嫌な予感)


例外なく私にも「ありがとうな。ニコニコ」と言う。「お父さん、どうしたの??」と言うと、「なぁーんな、いつもと一緒たい。」と。


涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。


その日は金曜日で自宅に連れて帰った。
すると、車の中で、気持ちよさそうに「カエルの歌」を歌い始めた。笑



7月の初夏の夜、風が気持ちよくて、窓を開けて、ご機嫌に口ずさんでいた。


その日の夜、父は一睡もしなかった。
家中の物をタンスや押し入れから引っ張り出して、何かに取り憑かれたように必死の形相、不安と恐怖と戦っているようだった。

私「どうしたの?」
父「それが分からんとたい。どうしたらいいのか、さっぱり分からんとたい。」
私「何か探してるの?」
父「・・・(頭を抱える)おかしくなってる!怒」
私「大丈夫、大丈夫。一緒に寝よう。」

私は父のベッドの横に布団を持ってきて、一緒に寝ることにした。

「おやすみ」と言って布団に横になった1,2分後、すぐに起き出して、家中の物を引っ張り出すという行為を何度も何度も繰り返す。


そして朝になった。

父も私もグッタリしていた。
朝になったら「病院に電話しよう」と決めていた。父も「病院に行きたい」と言い出した。

私の指示が入らない父を、連れていくのは困難で、救急要請した。


病院に電話した時、たまたま主治医の先生と話せた。「もう、頑張れませんか?今回入院したら、おそらくもう家には帰れない。」と。


覚悟していた。
でも、父も私も限界だった。


救急車で病院に着くと、父の意識は半分朦朧としていた。私を見つけると、ニコニコして手を振り「〇〇ちゃん、ありがとね〜」と。(感謝されることは何もしていないのに)


私の姿が見えなくなると、「娘は?」と周囲をキョロキョロ探す。私を見つけると、ニコニコ。「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」「可愛い娘」と看護師さんの前で何度も何度も繰り返していた。


私は照れ臭くて、「はいはい」「お父さん何言ってるの〜」と軽く返事をしていたが、それが最後の会話になったのだ。


父はニコニコにこにこ。
何度も何度も私に「ありがとう」「ありがとう」を繰り返した。


緩和ケアの担当医師から、「モルヒネを打ちます」と言われた。「意識がより朦朧として話ができなくなるでしょう。会わせたい人を呼んでください。」と。



いろんな人が父に会いにきてくれた。
まともな会話はできなかったが、声に反応したり、時たま奇跡的に会話ができた。


少し容体が安定していたため、私の体を心配してくれた祖母が、「今日は、婆ちゃんが泊まるから、あなたは家で休みなさい」と言ってくれた。

心配だったが、祖母がいるなら大丈夫かな、と思い、その日の夜は自宅に帰った。


すると、

深夜0時過ぎ、電話がなったのだ。



看護師さんからだった。
「落ち着いて聞いてください。今から病院に来れますか。落ち着いて、気をつけて来てください。」と。

急いで病院に向かった。



2012年7月19日
深夜0時58分、父は永眠した。

自宅に戻っていた時間はほんの数時間だった。


なぜ??
ずっと側にいたのに。
息を引き取る瞬間に立ち会えなかった。


祖母が父のベッドの周りをクルクルと回っている。


「お婆ちゃん、大丈夫?」と尋ねると、「いつの間に。婆ちゃんは眠剤を飲んでぐーぐー寝とった。気づかんかった。」と、狼狽えている。



お婆ちゃんらしい。。
(こんな時だが、ふふっとなった)



父も、一番安心できる日を選んで逝ったんだなぁと思った。父にとって、やっぱり祖母は、偉大な存在。祖母は強くて、しっかりした女性で、ちょっとやそこらのことでは動じない。そして、母親の前だから安心して逝けたのだろうと思った。しかも祖母がグースカ寝てる間に。

そんなことを後々考えた。



再入院してから亡くなるまで、わずか一週間程であった。


写真はいつの日かの父から私への走り書きのメモ。びっくりマークがなつかしいなぁ。




続く💙 


RICO

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?