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憤死寸前、猫が教えてくれたこと

 ここ7、8年は人前で怒っていない。仕事で「怒っているふう」な態度を取らなければならないことがあるが、それはあくまでも「ビジネス怒り」であり、心の中はいたって凪。猫がソファをぼろぼろにしようと、知らない人から暴言を浴びようと、「あらあら、仕方ないわね」と、基本はいつでも心が穏やかなつもりだ。適度なストレス発散ができているからだと思う。

 過去に一度だけ「打っても響かない人」に「なぜわからないのか」と激昂したことがある。理由はもはや覚えていないが、あまりに理不尽なことが続いてしまい、ストレスが一気に噴出してしまったのだ。
 普段怒らないと、怒り方がわからない。私は椅子に坐り、大声を出すわけでもなく、静かに、静かに怒っていた。漫画みたいに「ゴゴゴゴゴゴゴ」と背景に描き文字で書かれている感じ。どうやら交感神経が刺激されてカテコールアミンが分泌されたようで、血圧が上昇し、あまりに強く歯を食いしばって目をぎゅうっと閉じたために、目の上の毛細血管が切れてしまった。なるほど、「憤死」というのは私のように、内へ内へと怒りを向ける人がなるものなのだな、と思った。
 ちなみに三国志の周瑜は、諸葛亮孔明の挑発的な手紙に憤死したと言われている。周瑜といえば赤壁の戦い。孔明が風向きを変えて曹操軍の船を燃やした、あの有名な戦いだ。私は映画「レッドクリフ」が大好物で、周瑜はトニー・レオン、孔明は金城武が演じた(この映画は関羽がかっこいいので観てほしい)。もし孔明がSNSをしていたら、縦読みで「しねむのう」と書くようなタイプだから、よほど周瑜を煽るような手紙を送ったのだろう。手紙を読んで憤死。つらい。
 専門家ではないからわからないが、私の場合は嬉しい楽しいと感じる陽のエネルギーは外側に、怒りのエネルギーは内側に向かうタイプで、怒りで血圧が上昇して毛細血管が切れるところまでいくと、憤死手前までいっていたのではないかと思う。もちろん憤死という死因は実際にはなく、脳卒中や心筋梗塞が死因となるのだろうが、怒りがきっかけで血圧が上がったら……と思うと、ただただ怖い。数日間、内出血で目の上からおでこにかけて紫色に変色した姿はX-MENの登場人物みたいでちょっとカッコよかったけれど、憤死はいやだなと心から思った。

 その経験からか、怒りはなるべく小出しにするようになった。そこまで怒っているわけではないけれど、溜めずにちょこちょこ出していく。でも、怒っている姿はなるべく「人間」には見せたくない。そこでついつい猫にモラハラをしてしまうのである。猫へのモラハラはペット虐待だろうか。どうしよう、方々から怒られてしまうだろうか。

 我が家には三匹の猫がいる。一番上は保護猫のうなぎ(雌、八才)、ブリーダーさん宅から来た”いいとこの子“のモリオ(雄、三才)、一番下は保護猫のマニ(雌、二才)。

「今日は何か仕事したの?」
「生きがいとかやりがい、あるの?」
「寝て、食べての生活で、毎日楽しい?」
「今日のタスクは何? 寝ること? いいご身分だこと」

「猫は言葉がわかる」という人もいる。たしかにわかっているかも、と思うことはしばしばある。弁明として言っておきたいのは、私は猫が好きだということ。たまにモラハラをするけれど、めちゃくちゃ過保護に可愛がっている。美味しくて健康に気を遣った高級なカリカリ。ニャンとも清潔トイレはまめに交換している。いつでも綺麗な水が飲めるように循環型モーターのついた水飲み器を使っている。猫のために階段のある家に引っ越し、猫用のベッドは人間の布団よりふかふかだ。もちろん旅行にも行かない。
 しかし、ついついプチ怒りを小出しにしてしまう。
 三匹いると人間関係ならぬ猫間関係もいろいろあり、よく喧嘩の仲裁に入る。女性陣が気が強く、まんなかのモリオは気が弱い。モリオはご飯も横取りされるし、末っ子に追いかけ回されて物陰に隠れる。いじめられても言い返せないタイプで、つねに理不尽な扱いに耐えている。それなのに仏のような性格で、これまで一度も「シャー」と威嚇したことがない。怒りの感情がないのかもしれない。いつも悲しげな表情をしていて(そういう猫種なのだけど)、健気な感じが涙を誘う。だから、モリオにはモラハラをしないし、モリオがいじめられていたら手を差し伸べるようにしている。
「酷い目に遭ったね」
「お姉さんに嫌なこと言われたの」
「あいつらは悪魔だね」
「百倍にして復讐しよう」

 モリオは何も言わず、じっと私を見る。
「これがぼくの運命なのです」
 と、物憂げに目を閉じる。
 ソファで寝てるとモリオがお腹の上に乗ってくる。人肌が恋しいのか、目を細めて気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
「モリオはなんで生まれてきたの」と聞く。
 モリオは何も言わない。
 怒りの感情はすぐに引っ込んでしまうものだ。そして怒りの後には無力感に襲われる。ひとりでぼーっとしていると、自分が生きる意味や、宇宙や、ご先祖さまや、自分がいない未来なんかを考えたりする。壮大な問いだ。答えられる人はいないだろう。ひとりでいるとずるずると暗いところに引っ張られそうになる。

 モリオは毎日、私の顔の横で寝ている。たまに枕にされても、踏んづけられても、疲れた人間に暴言を吐かれても、全然怒らない。モリオはぜんぶわかっている。宇宙のしくみも、生まれてきた意味も、日本語も、明日の天気も、人間の愚かさも。
「憤死なんてするの、人間だけだろうなあ」
 と思いながら、またモリオを触る。まだ何もわからない幼いマニがスライディングをしてくる。うなぎは哲学者のような顔で、今日も世を憂いでいる。
 猫と怒りは結びつかない。「打っても響かない人」に激昂したのは、相手が自分の望む反応をしなかったからだ。「打っても響かない猫」に怒らないのは、猫の反応をそもそも期待していないからだ。
「相手に過度な期待はしない」というのが、近年、猫が私に教えてくれたことなのだ。

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