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大谷翔平物語ー始まりは、どこから?  18歳、約束を結んだあの日ー9年後に少年は、約束を果たすー2022年、投打規定数到達へ。なんとすごい、なんとすごいことでしょう。


 大谷翔平は、有名人だった。花巻東高校の2年生エース。しかしながら出場した夏の甲子園では帝京高校に敗れ、選抜大会では藤浪晋太郎擁する大阪桐蔭高校に敗れる。3年夏の予選大会で高校生としては初の160/kmの球速を記録し、俄然全国的な注目選手となった。のだったが結局はこの夏の予選を突破できずに「日本一になる!」夢を追った高校時代の幕は降りてしまう。

 卒業を迎える大谷翔平は、最注目のプロ野球ドラフト1位指名筆頭候補であり、プロ野球志望届けも提出していたが、直前に希望を変更、会見を開き「メジャーリーグに挑戦します」と宣言する。メジャーリーグに最初から行きたいからプロ野球の球団は指名しないでくださいという意思表明だった。

困惑し混迷するプロ野球界にあって、初めから「最も優れた選手」として1位指名を公言していた北海道日本ハムファイターズだけが、態度を変えなかった。ドラフト前日にも「1位で指名する」と断言。指名を争い、互いに牽制しあう球団の中にあって前日に指名を公言するのは、異例のことである。

2012年の10月。ファイターズは、本当に大谷翔平を1位指名した。他に競合する球団はなかった。本人の意思が固く、指名しても入団しないと他球団は諦め、ファイターズだけが有言実行したのだった。

 ファイターズは、ドラフト会議を混乱させる常習犯である。2006年「巨人以外には行かない」と宣言していた長野久義を4位で指名。拒否される。2011年、これも「叔父、原辰徳監督のいる巨人でプレーするのが夢」と事実上の逆指名をしていた菅野智之をこれまた1位の入札で引き当ててしまうが、拒否される。

 ドラフト指名のルールは、コロコロ変わるので、ガチプロ野球マニアでもない限りよくわからない。かつては「逆指名」という制度があり、有望な選手が特定の球団と交渉して指名してもいいことになっていたし、そうでなくても水面下の争奪戦で大金が動き、あらかじめ手打ちがされたり、お金のある球団にしか良い選手が集まらず、ドラフトの意味がなかったりした。北海道に来てからのファイターズは、とにかく断固として「その年一番の選手を取りに行く」姿勢を崩さず、旧態依然としたプロ野球界の慣習をぶち破る志を持っていたと思う。

 と、話が長くなってしまったが、大谷翔平である。メジャーに行くっていってるから、指名しても入団しないと言ってるから「本人の意思を汲んで指名を回避した」とする他球団は、事前に打ち合わせていたのではないか騙し打ちだとファイターズを糾弾し、花巻東高校へも抗議の電話や誹謗中傷が殺到しているとニュースになった。

ファンの目から見ても、状況的には、入団は難しそうに見えた。大谷翔平本人も当初は、自らの宣言に従い、メジャーへの道を作ってくれたスカウトの面目も考え、頑なに拒否の姿勢を変えなかった。

まずは高校の監督、両親へのご挨拶をクリアしたファイターズは、ついに本人との面会を実現する。この時も大谷翔平の意志は変わらず、一応プロ野球志望届けを出してはいたのだから礼儀を守ってお断りするつもりだったようだ。その固い意志が、なぜ変化したのか。本当のところは、単なるファンでしかない者には、わかるはずもない。

しかし、当時のわたしと同じように毎日毎日届けられる大谷翔平ニュースを逐一じーっと見ていたファンの目には、きっと同じ気づきがあったと思う。

「投手とバッター、両方で育成したい」

そうファイターズのスカウト陣と栗山英樹監督が提案した日のニュース映像。固く表情に乏しかった大谷少年の顔が、にっこりとほころんだことに。

誰も歩まない道を歩めー

投打で出場するプロ野球選手になる。現在に続く、大谷翔平へかけられた夢の一歩が踏み出された瞬間だった。

「出来るわけがない」

「無謀だ」

「投手かバッターにやがては絞られる」

素人にはわからないが、野球経験者、元プロ野球選手、玄人であればあるほど疑問視する人が多かったように思う。否定的な意見の嵐の中で、肯定的だったのは、わたしの記憶の限りでは、長嶋茂雄、王貞治、落合博満、権藤博ーといった人たちだった(わたしは、こちらを信頼した)

 多分、多くの人が誤解していると思うけれど、大谷翔平の投手と打者(野手というには、制限があるように思える)両方での道は、本人が初めから志したものではない。本人は、メジャーに行くにあたって投手か野手、どちらかに決めなければならないと考えていたとインタビューで話していた。どちらも好きだけれど、どっちもは無理だと、当人も思っていたのだ。

そう考えているところに、ファイターズは、両方での挑戦を提案した。具体的な育成プランー「大谷翔平くん、夢への道標」を持って。

「本人がやりたいって言ってるんだからやらせろ」

当時、わたし自身も含めて、大谷ツーウエイに肯定派に多かった言葉は、半分は当たっているけれど、半分は間違いだ。ファイターズの提案を受けて挑戦するに足ると本人が決断したところから、全ては始まっているのである。

 と、書いていましたが、「プロ入り前から両方やりたいと語っていた」という同級生のインタビュー記事が出てました。この内容だけでは時間軸が不明ですが、メジャーに行く宣言前の話なのかな…(これでは、大谷くんがあらかじめドラフトにかかるつもりだったと読めちゃうので、なんか心配だけど😅  )とはいえ語っていたのは真実でしょうから、本人はもともと両方やってみたかったが、最初からメジャーでは難しい、ファイターズなら実現させてみせると提案したーことによって、本人が志望変更を決断したーという流れになりますね。文章の前提が変わってしまいますが、修正せずに、訂正を入れさせていただきます。

 ファイターズに入団してからも彼は、自分一人でやりたいことをやりたいようにやっていたわけではない。綿密に立てられた計画の中で、私生活を含め相当な制限をかけられながら、しかし、自らの意思を持って必要な努力をやり通してきた結果なのだと思う。「大谷翔平」を育てる道は、周囲の人々にとってこそ、辛く厳しく、困難なものだったはずだ。その課せられた責任の重さによって。

 2013年シーズン以来、2016年のパ・リーグ優勝、日本一まで。わたしたちファイターズファンは、大谷翔平のまさしくもプロの道をひた走り、天高く翔く様をつぶさに見ていた。

だからといって、それはもちろん容易いものでもなかった。能力が高いがゆえの身体的な負担、ゆるい足首は何度も捻挫し、強い力がかかる踵は、ベースを踏んで骨折し、2017年の北海道でのラストシーズンは、足の肉離れや故障に悩まされ、なんとも言えないぼんやりしたものになってしまった。
けれども、それでも彼は、迷いなく、まっすぐに旅立っていく。

 2011年、ダルビッシュ有が、アメリカに渡ったとき。さまざまな憶測がなされた。ゴシップ記事もたくさんあった。けれども、その実態は「もう給料を払えなくなった」からと当時の藤井社長が、著書の中であっさりと告白している(公表されていた年俸は、半分以下で、実際は8億だったと)

そりゃーそれだけでもないとは、思う。でも現実として、ダルビッシュは「もう日本のプロ野球では雇えない選手」に成長拡大していたのだ。そうなるように育てたのは、だから北海道日本ハムファイターズである。これは、あくまでもわたしの想像でしかないが、大谷翔平の場合は、おそらくはじめから「5年契約」だったのではないか。それまでに「日本一になる」夢を果たして。

 ダルがいれば、翔平がいれば、有原航平がいれば(もっと細かく言えば、糸井嘉男がいれば、陽岱鋼がいれば、谷元圭介がいれば…)ファイターズは今頃、悠々自適でホークスにも負けずに、日本一七連覇くらいしてたかもしれない。なぜひなにも稀れな、不世出の、特別な選手を、こうもやすやすと手放し、遠くへ旅立たせてしまうのか。福岡ソフトバンクホークスも読売ジャイアンツも海外FA権獲得選手以外のメジャー移籍は認めていないというのに?

「ロマンしかない。僕たちはロマン主義だから」

吉村GMは、言う。いや別にいいけど。ロマンでもマロンでも。それで北海道日本ハムファイターズ。2017年からずっと低迷したままで、2021年最下位独走まで至ってしまってるけど。それでもなお。わたしには、このファイターズのやり方を、来し方を、否定することはできないのだった。

メジャーに渡って4年目。大きな肘の手術、膝の怪我と手術を経て、27歳の時を迎えた大谷翔平は。未だ、投打二つの役目を諦めず、それどころか世界をあっと言わせる活躍で、全うしようとしている。毎試合出場し、休みも入れずに先発し勝利投手となり次の日にホームランを打つ!ような。

一体全体、それは何のためだろうか?

なんで大谷翔平は、投手と打者、両方での特別な選手としてあり続けようとするのだろうか。

メジャーリーグへ行きますと、プロ野球へは行かないと宣言した、あの日。にも関わらず「北海道日本ハムファイターズさんにお世話になることにしました」と緊張で震えるマイクを持つ手で会見を開いた、あの日。

18歳の少年の胸に、ただ明るい希望だけがあったとは、わたしには、到底思われない。現実に信頼された人との約束を違え、世間の見知らぬ多くの人々から裏切り者と見なされた経験は、彼の人生に影響を与えないはずはないからだ。

それでも、自分は選んだ。最初の言葉とは別の道を。翻すには、もう二度と約束は、破らない

違うだろうか。大谷翔平は、日本のプロ野球で始めると決めた、自分自身との約束=わたしたちとの約束を、守り続けているのだと。

ただただ暗い薄闇がかかる、たった今の世界で、明るい光を照らす太陽。それが大谷翔平だ。わたしたちの大谷翔平を、この広い世界へ、送り出したのは、紛れもない、北海道日本ハムファイターズなのである。


18歳の約束を胸に抱いて、ただひたすらに歩む君なのだとしたら。

せめて、いつか解き放たれる日が来るまで。

わたしも約束する。信じようとし続ける。君の行先を。

たとえどんな結末が訪れたとしても。

始まりの地は、ここにある。


追記

 2022年秋、少年の約束は、一つ、果たされることになる。
「エースで4番。大谷翔平は二人いる」
と当時の栗山英樹監督は語ったが、2022年メジャーリーグで投打規定数到達。15勝9敗防御率2.33 打率273 本塁打34 打点95
4番はほとんど打たなかったと思うが、投手と打者の仕事をシーズン通してハイレベルで全うした。

大谷翔平は、二人いない。
ただ一人の人だからこそ。
大谷翔平は、夢を見る。この世界で。
その夢と多くの人々とともに、生きている。


(文中敬称略)









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