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【映画】「ロード・オブ・カオス」

 ブラックメタルに特別の愛着はないですが、面白そうな内容だったので話題の映画「ロード・オブ・カオス」観てきました。

 中身は、ノルウェーを中心とした90年代初頭のブラックメタル黎明期に起きたブラックメタルバンドのメンバーによる教会放火、殺人等のショッキングな事実を元に若干の創作を加えたドキュメンタリータッチの映画で、そういう意味ではフレディ・マーキュリーの人生をよりドラマティックに脚色していた「ボヘミアン・ラプソディ」的映画と言えるかもしれません。ただ、かたやQueenメンバーも公認の映画、こちらは主人公ユーロニモスの遺族やMayhemメンバー、殺害当事者であるBurzumのヴァーグ(カウント)などの関係者が「事実に反する」「ハリウッド商業主義に毒された映画」などと酷評するなど、周りの受け止め方は随分と異なってはいるようですが…。

 さて映画を観た率直な感想ですが、「ブラックメタル・インナーサークル」の連中が様々な凶行に至るまでの集団心理を描いた犯罪ドキュメンタリー的要素だけでなく、ノルウェーのブラックメタルシーンの中心人物であるMayhem・故ユーロニモスを主人公に、彼を取り巻く周囲との人間模様や心の揺れを描いたある種「青春群像劇」としても観られるように作られており、当時のブラックメタル黎明期に関する予備知識がそこまで無くとも十分に面白く観ることが出来ました(自傷・自殺・殺人などのショッキングな描写が多々あるので、血の苦手な人には若干きついかもしれません)。実際映画としての評判もすこぶる良く、既に多くの評論家やアーティストがこの映画の主題である「誰が一番過激なことやるか競争」の集団心理(だからこそこの映画のタイトルは”Loads of Chaos”なんですね)や「狂気にのめり込んでしまうその背景にあるピュアさ=真面目さ」「いじめの構造との類似性(”ポーザー”扱いされたくない心理)」について語っています。特に映画評論家・町山智浩のラジオ「たまむすび」での北欧の宗教史までを踏まえてのコメントや、マーティ・フリードマンのインタビューがその辺りテーマの読み解きとしては秀逸なので、是非下記リンクよりご一読頂ければと思います。

 というように、「なぜ彼等はあのような狂気に走ったのか」という視点については他の人がかなり踏み込んで掘り下げをしてくれているのですが、一般的な家庭で両親と同居しているような「普通の青年」が、敢えて一般人のみならず多くのメタラーすらも眉を顰めるような過激で訳の分からない音楽ジャンルに没頭していったのかという根本動機については語られていないこともあり(それは映画でも触れられていない)、その点を掘り下げていくと同時に、ブラックメタルの他のメタルと比較しての異質性にも踏み込んでみたいと思います。

 まずは少し映画から外れて、メタルという音楽の社会的な位置づけについて少し触れたいと思います。日本は非常に特殊で、メタルは社会的ステータスやライフスタイルとは基本的には切り離された単なる音楽ジャンル・音楽的趣味に位置づけられていて、「メタルが好き」と言っても、単に趣味・センスの良し悪しの軸で評価されるだけなのに対し、海外の特にキリスト教圏は事情が異なるというのが個人的な実感。実際に非メタルな欧米系の人とコミュニケーションを図ると分かりますが、例えば仕事の繋がりで知っている人に「メタルが好き」なんて言おうものなら、眉をひそめるくらいなら良い方で、「そんなことは人前で言わない方がいい」的な忠告を受けるくらいの、ある種の軽蔑的なニュアンスの対応をされることもあります。要は音楽と社会的ステータスやライフスタイルとに密接な関係があり、メタルは基本的にはそれなりの教養や社会的ステータスがある人間が聴く音楽ではないという社会的記号性を持ち合わせているということなのでしょう。では、なぜそのような負のステータスに位置づけられている音楽を、あえて選択するのでしょうか?それは、メタルにまつわる過激な記号性を身にまとうことで、「普通じゃない人」になれたと錯覚できたり、周りに流されない自分(ホントは流れに乗れない)というアイデンティティを肯定できたりといった、そこに癒しや救いがあるからに他なりません。

 このような世間一般からは白眼視される存在であるという背景から、メタルには一歩そのフィールドに足を踏み入れると、非常に強固なコミュニティが築かれているという特徴があります。ただ、こうした言語や人種を超えた連帯感がある反面、独特のルールが敷かれていて、先のマーティ・フリードマンのインタビューでもその事について言及されています。

「スコーピオンズを聴いているのはダサい!という感覚は超わかる(笑)。海外のメタルのファンはどんな音楽を聴いているかとても厳しく判断するし、独特のルールがあります。日本のロック・ファンはオープンですけど、アメリカでは自分が好きなジャンル以外の音楽を聴いているのを友達には絶対言えません」

これはなかなか耳の痛い話で、かつて「BURRN!」誌が様式主義・メロディ至上主義の論調を鮮明に打ち出し、多くの読者がそれに追随してグランジ/オルタナティブメタルへのアンチを表明している中、「自分は「BURRN!」に毒されないグローバルなシーンや他の音楽トレンドもちゃんと押さえているイケてるメタラーで、◯◯みたいな旧時代的な”ビッグ・イン・ジャパン”バンドを持て囃すなんてセンスないことはいい加減勘弁してよ」と厨二病を発症していたイタい時期もあって、いずれにせよそういうマウンティング合戦がかなり色濃いジャンルであることは間違いないかと思います。

 次に本題であるブラックメタルという音楽についてです。現在は高音域を強調したノイジーなギター、ローファイなサウンドプロダクション、金切り声や泣き叫ぶような声、トレモロリフ、不安定さを醸し出すコードの多用(悪魔のコード”全三音”など)、ブラストビート、宗教的荘厳さ、etc.といった傾向・特徴を包含した音楽を指し示すサブジャンル用語として認知されているかと思います。が、やってる本人達からすると思想面が非常に重要な音楽のようで、事実多くのアーティストがブラックメタルについて一家言を持っており、

・「ブラックメタルは根本的なレベルで現代精神を批判する芸術活動」
・「ブラックメタルというのは何よりもまず、個人主義ってこと」
・「やりたいことは何でもやる。ブラックメタルというのは音楽のスタイルではなくアティテュード」
・「霊的意義、文化的意義に欠けているように感じられる世界に満足しておらず、それを超えた宗教的熱狂に満ちた世俗主義への挑戦」

など主張は様々ながらも、さながらパンクロックバンドのような思想に基づく音楽ジャンルであることを強調して憚りません。そういう意味では、音楽的にもビジュアル的にもスタイルが重視されるメタル的価値観とはかなり異質な世界観を持つサブジャンルであることが分かります。その精神性を語る上での重要なキーワードは、「厭世感」、「アンチ」、「自律性へのこだわり」、「常識観からの逸脱」といったところでしょうか。

 音楽的には、Venom、Celtic Frost(Hellhammer)、Sodom、Kreator、Bathory等の欧州スラッシュバンドの初期=”First Wave of Black Metal”のプリミティブな初期衝動を下敷きに、より暗さ・邪悪さ・狂気を増幅させたもの。実際映画「ロード・オブ・カオス」の中でも、ユーロニモスのレコードショップ「Helvete」で「”本物”のサウンドはどれだ?」みたいなことを言われたヴァーグが、Sodomの怪盤”In the Sign of Evil”(1stEP)を選んで「ポーザーじゃない」ことを証明してみせたり(下記写真参照)、常にVenomやBathoryのTシャツを着ていたりといったところからも、これらのバンドの影響力の大きさが見て取れます。特に「下手で音質が劣悪でも良い」「バンドじゃなくても構わない」「悪魔崇拝や北欧神話といった大きな物語へのこだわり」「病的であればあるほど”本物”」といった誇大妄想宅録系のアティテュードに関してはもはやBathoryそのまま。この映画がフロリダを中心としたデスメタルが隆盛していた90年代初頭を描いていることを考えると、当時としては相当異質なこだわりだったかと思います(当時はVenomもBathoryも初期Sodomもレジェンドなどではなく、普通のメタラーからは笑いのネタにされていた印象なので…)。

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 ちなみにメタルのサブジャンルの中でも他に過激な音楽としてはデスメタルがありますが、映画の中でヴァーグが「Morbid AngelのTシャツを着たガキ共」みたいな表現で侮蔑していたように、ブラックメタル側からするとアメリカ産のデスメタルは否定の対象であり、もっと言えば、デスメタルの否定から生まれた音楽という見方も出来ます。ではなぜ同じようにメタルの極北を目指す音楽でありながら、ブラックメタル勢はデスメタルを目の敵にするのでしょうか?その1つの解は、ブラックメタルの連中が、デスメタルが根っ子に持っている、①マッチョ感、②テクニカル志向、③形式主義(音楽至上主義)に対して強烈なルサンチマンを抱いているからだと思われます。デスメタルは、当時はネクストスラッシュの最も過激な音としてシーンに台頭。メタル的価値観の延長線上にある演奏・スタイル重視の音楽で、雰囲気的にも明らかに肉食系だし体育会系(タフなフィジカルで皆で相当激しい訓練をしないとあんなタイトなアンサンブルは出来ない)。「スラッシュメタルを下敷きにより過激に」というメンタリティは共通しているものの、メタル的価値観におけるマウンティング合戦では楽曲構築力・演奏能力の面で明らかに勝負は出来ない。世の中にもうまくハマれないのに、メタルの中にも自分達のあるべき居場所がなくなった(=奴等のせいで特別な存在になれない)とデスメタルの連中を同族嫌悪してしまったとしても無理はありません。そうした、非マッチョで、演奏能力も音楽的知識も金もないけど、初期スラッシュのプリミティブな初期衝動に共感しながら「より過激な音の美学」を創造したい誇大妄想型で文化系気質の若造が、「自分は人と違う奴」であるというアイデンティティを保つ手段として発明した世界観がブラックメタル。デスメタルのような表面的に過激なだけで思想や美学のない音楽はやらない。自分は一角の才能・狂気をもった人間であり、誰が一番狂った音、怖い音、絶望的な音を鳴らせるか?そして異形の独自の世界観をクリエイト出来るかを競い合い”本物”は誰かを確認し合う。まさに厨二病の音楽といったところでしょうか。これらの音世界が持っている狂気の存在を更に高めるため悪魔崇拝、ペイガニズム、コープスペイントといった記号的な「過激で狂って見えるお膳立て」をし、更に言動まで過激化していってしまったのが、当時の「ブラックメタル・インナーサークル」だったのではないかなと思っています。

 もちろん今ではブラックメタルは、1つの音楽スタイルとして確立され、Dimmu Borgirのような洗練されたサウンドでグローバルに成功するバンドや、ブラッケンド・デスやテクニカル・ブラックメタルのような黎明期のブラックメタルの価値観とはそぐわないアーティストも多く出てきており、あの当時だからこそ「アティテュード/思想の音楽としてのブラックメタル」というのが成立し得たのでしょう。デッドは確実に病んでたし、もしかするとヴァーグは本物のサイコパス野郎だったのかもしれませんが、多くの連中は、本当は普通だけど普通だと思われたくない厨二病連中で、そんな彼等が自己表現手段として発明したのが「音楽を含めた総合的世界観」としてのブラックメタルであり、そのような厨二病の癒し的存在としてのブラックメタル世界の雰囲気は、映画の中でもその人物描写を通じて、うまく表現されていたように思います。

 最後に余談ですが、ヴァーグがMayhemライヴ後のユーロニモスに歩み寄り握手を求めた際、Gジャンに着けていたScorpionsパッチを指差し「Scorpions?」と一言発して立ち去る、当時のメタラーなら分かる「ポーザーを馬鹿にする心理」を見事に描いた大好きなシーン(下記写真参照)があるのですが、実はこれ本当はMotley Crueの”Dr.Feelgood”のパッチで撮影していたそうで、ニッキー・シックスの許可が得られずに仕方なくScorpionsパッチに変更したんだとか。ちょっとニッキーの肝っ玉の小ささにガッカリしてしまいましたが、まあ、SODの”Fist Banging Mania”の歌詞でも「モッシュの出来ないフィストバンギング野郎はモトリーのギグにでも行ってろ」と揶揄されたりと、何かとメタル界のポーザー代表扱いされるのがイヤだったのかもしれないですね…。

スコーピオンズ









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