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発狂の日常化へと進むのか。村田沙耶香「生命式」が描くあり得る未来

「正常は発狂の一種。この世で唯一許される発狂を正常と呼ぶ」
まさにこのセリフに貫かれた一冊でした。


「生命式」
人口が激減している世界では、人が死ぬと葬式に代わり、「生命式」という、故人の人肉を食する儀式が開かれる。故人を惜しみながら食する気の合った参列者男女は、式を離れ、受精をする。セックスではなく、受精という明確な目的を持った行為を行う。


「素敵な素材」
服や家具、アクセサリーなど、その素材には人間の、毛、骨、歯、爪、皮膚などが当たり前のように使われている世界。
「人間を素材として活用することを残酷というのか、素材として使わず燃やしてしまうのが残酷なのか」
その価値観に疑いを持たない多数が占めている世界。


「素晴らしい食卓」
好みや価値観、信じるものが異なる複数がそれそれ信じるものを食卓に並べ、一同に介し会食をする。


「孵化」
コミュニティに合わせて適応するために主人公は「呼応」する。どのコミュニテイでも好かれるように人は呼応を繰り返し、キャラクター化していく。
さて、本当の自分とは?
平野啓一郎氏が唱える「分人」の考えをフィクションの形に置き換えたものといえます。



世界そのものが発狂した日常と、個人が発狂した日常が描かれている短篇が12編。
もちろんここでいう「発狂」とは、2023年時点の大多数における「正常」と照らし合わせての発狂だから、この先ある日突然くるっと発狂と日常が入れ替わってしまうことだってあり得ます。

今のこの世界や日本を俯瞰して見ると、なんだってあり得てしまうほど不安定さと、どこへだって転がっていける柔軟さがあって、この短編集の世界は一概にフィクションだなんて言えない。

ひょっとすると、30年後には、予言の書、だなんて言われてしまうほどの予見性がある。
だって、今現在の、垣間見える現実やSNS上にあふれかえる攻撃性のなかには、発狂に至る日常の芽が小さく顔をのぞかせているような気もするからです。

そう考えると、発狂は日常の一種、て言葉はとても恐ろしい。
おそらく今だって、狂ってんじゃない?と疑わざるを得ない発言や行いを見せている人たちは自らを発狂しているだなんて思ってなく、極めて日常で常識的で、なおかつ賢い、と思いこんでいるのだから。
なんとなく、だから、寛容さや多様性という聞こえのいい言葉で、目を閉じてしまうのも危ないなぁ、と感じてしまうのです。


素晴らしい食卓」にこんなセリフがあります。


「皆が、それぞれ他人の食べ物を気持ちが悪い、食べたくないなと思っている。それこそ正常な感覚だ。その人が食べているものは、その人の文化、その人だけの個人的な人生体験の結晶。それを他人に強要するのは間違っている」

こうして明確な指針もなく認めあっていくその先にあるのは、日常と化してしまった発狂、発狂の日常化だったらイヤだ。


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