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想像にも手触りがある〜「目をあけてごらん、離陸するから」を読んで

本は出会い、とはいうものの、思いがけず飛び込んできた
「小牧駅の駅前には」で始める文章には驚きました。
小牧?え、小牧ってここの、小牧?


詩人の大崎清夏さんの、小説、紀行、エッセイが収められた一冊。
「目をあけてごらん、離陸するから Open Your Eyes,We're About to Take off 」

カフェのテラス席に座りコーヒーを味わう姿や
訪れた後輩の部屋の本棚におさまるサリンジャーや、
内側に名前が書かれたかもしれないドクターマーチンのブーツや
余ったシューレースを足首にぐるぐる巻いたコンバースのハイカットや
そんな一瞬の光景を切り取ったかのような一葉の写真を思い浮かべてしまう、とても丁寧で気取りのない文章で綴られた短編にしばらく酔い、
ベルリンやラオスや広州での紀行文とともに旅を味わい、
ひと息つくと、ここまでで153ページ。


さあ次は、と、154ページ目。
それは「プラネタリウムが星を巡らせるとき」というタイトルのエッセイです。

冒頭いきなり飛び込んできたのが、
「小牧駅の駅前には、新しくできたぴかぴかの図書館がある」の文章でした。

このぴかぴかの図書館こそ、週に一回は訪れる、我が地元の小牧市中央図書館なのだ。

なんなんだ。何について書かれてあるんだ。
ウォーリーを探すように一文一文句読点ひとつさえ見逃さないようじっくりと読み進めてしまった。


そうか、大崎清夏さんは、詩の朗読会とワークショップで小牧を訪れていたのか。
しかもその場所は、小牧駅から少し離れたところにある、小牧中央公民館プラネタリウムだという。
この地域でプラネタリウムというと、名古屋市科学館となってしまうでしょうが、小牧にも小さいけれどプラネタリウムはあるのだ。
(探査機はやぶさのなにかを、一度見にいったことがある)


大崎さんの朗読会とワークショップは、当初2020年の予定だったけれど、緊急事態宣言で一年延期となり、翌2021年に開かれたらしい。

2021年7月、それが開かれる前日、大崎さんは新幹線で名古屋へと向かいます。
そのころ熱海では、大雨による土砂災害が起きていました。
大崎さんの乗った新幹線が熱海駅を通過するころ、土石流が駅にまで流れ下っていたということを、大崎さんはあとで知ることとなります。


このエッセイ「プラネタリウムが星を巡らせるとき」は、小牧での朗読会やワークショップの単なる記録ではありません。


熱海での土砂災害から、自らが2011年の震災で帰宅困難者になったこと、コロナによるパンデミックで本企画が延期になったことへと思いは巡り、津波に呑みこまれなくても、感染症を発症しなくても、人は簡単に災害の当事者になる、と語るのです。


そして、2021年7月、知性と想像力を膨らませる空間(朗読会とワークショップ)がきちんと機能したことが、私の復興、と結びつけています。


復興というものが、こういうふうに、ささやかに、ひとりの実感や手触りとしてあるものなのだということ。むしろ、そういう実感のなかにしか復興はないこと。そういうことを、私は知った。
実感としての復興は、誰かが誰かに対して証明しなければならないようなものじゃない。それは子どもが立って歩けるようになるようなこと。行きたい場所に行きたいときに行き、会いたい人に会うようなことだ。オリンピックを成立させるためにいま盛んに言われている「復興の証」ということばには、顔がない。のっぺらぼうのことばは、誰が誰に言っているのかよくわからないのに声ばかり大きくて、耳にするたびに薄気味悪い。

大崎さんは、わが町小牧での朗読会とワークショップを終え、新幹線で東京へ帰るとき、熱海駅で大きなビニール袋を両手に抱えた人の姿を車窓から見かけます。
一瞬見かけたその人の、その後を祈り、想像し、このエッセイは終わります。


途切れることなくどこかで災害が起き、そのたびに、その時は、思いを馳せるのだけど、その持続力は極めて弱いのが正直なところです。
非当事者が支配されるのは次なる関心で、すぐにまた些細な日常に埋没していきます。

ちょうど大崎さんが小牧を訪れていた頃放送されていたNHKの朝ドラ「おかえり、モネ」は、そんな当事者と非当事者を描いた話でした。
家族は津波に直面したのに、モネは家を離れていて津波を直接は体験していない。
だから大きく声をあげられない。
そんな後ろめたさや負い目を抱えた登場人物の物語でした。


映画「すずめの戸締まり」の新海誠監督は、「すずめの戸締まり」で、震災やその他の災害を扱うことについて感じざるを得なかった後ろめたさに語っています。


誰もがいろんなことを感じたと思うのですが、僕の場合、今でも続いているのは強い“後ろめたさ”のような感情なんです。たぶん、あの時みんな感じたんじゃないかと思うんですが、自分が被災者でなかったことの後ろめたさ。あるいは被害にあったのが自分の住んでいる場所ではなかったことにほっとしてしまうような後ろめたさ。
「自分があそこにいてもおかしくなかった」「私があなただとしてもおかしくなかった」といったような紙一重な状況で、それなのに自分はエンタメ映画をつくっているという後ろめたさ。

仕事を辞めてボランティアに行った人もいれば引っ越した人もいるし、本当にいろんな人の人生、そして社会を変えたんだと思うんです。だけど僕は変わらず、結局アニメをつくり続けていて、当事者ではない後ろめたさがずっと続いていたんです。
でも、ずっとそういう気持ちが常に低いところにとどまるような気持ちを抱えたまま仕事を続けるというのは、僕だけじゃなくて誰にとってもなかなかきついことですよね。だから僕は、たぶん割り切ってしまったと思うんです。
自分はアニメをつくること以上に上手にできることは、ほかにどうもなさそうだと。だとしたら、この先時間がかかってもいいからエンタメでしかできない、今回起きた出来事に対しての自分なりの関わり方というものがあるんじゃないか。そういうふうに思いました。

災害や被災者に寄り添うというような言葉にすると、きれいごとも混じってしまうなとも思うんですが、少なくとも自分たちのやっている仕事にも、なんらかの意義めいたものがあるんだというふうに信じたいですよね。
自分たちの仕事に意味や意義があるということを確信できるような作品づくりをしたいというふうに、あのときに思ってつくるものを変えようと思ったんです。それが、2016年の『君の名は。』という映画につながっていきましたし、そのときの感情の自然な延長線上に『すずめの戸締まり』もあります。


<できること>を物語やフィクションという形で向き合えなくても、
大崎さんがこのエッセイで書いたように、

(復興が)ひとりの実感や手触りとしてあるものなのだということ。
と捉えればまだまだできること(思うこと)

はあるような気もしてきました。


「目をあけてごらん、離陸するから」に収められている小説(短編)には、主人公が自らの日常を、いくつか遠い社会の出来事と絡めて語る多く場面が出てきます。


「シューレースのぐるぐる巻き」では、映画の主演女優が2011年に震災復興支援コンサートの呼びかけ人として来日します。
その女優が「日本の人たちのことが心配で、居ても立ってもいられなくて」と語るのを、主人公はテレビの画面越しに見る場面が出てきます。


モノに名前を書く習性のある祖母のことを書いた「呼ばれた名前」では、大人になってからおばあさんと再会した日のことを、オランダ発マレーシア行きの民間飛行機が何物かの発射したミサイルに撃墜されてウクライナに墜落し、香港に黄色い雨傘がたくさん咲いた年のことだった。
と書いています。



大崎さんの短編は、多くは手の届く範囲の日常を描いていますが、主人公らは、その心の深いところではいつも社会とつながっていることを意識している印象を受けました。

それが、作者である大崎さんが、地元小牧で感じた「復興」における当事者ー非当事者の思いから導きだされたものであるなら、2021年7月同じ土地にいた者としてうれしいような、そんな感じもします。



そうそう、この「目をあけてごらん、離陸するから」は、新しくできたぴかぴかの図書館、小牧市中央図書館で借りた本です。
(買わなくてごめんなさい)

小牧市中央図書館の司書の皆さん、そちらの蔵書に、小牧市での朗読会ワークショップを通じて、復興へと思いを巡らせたこんな素敵な一冊があるんですよ。
小牧市民にぜひ周知を、お願いします。

この季節、駅前はこんな感じ
高校生たちが夜遅くまで勉強している

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