哲学を知り、[願い]に立ち返る

これまでの人生で感じた「もやもや」を晴らすヒントが、哲学にあるとは!という新鮮な驚きをもって、私は最近、「哲学」に接している。

これまで経験してきた、身体的・精神的葛藤の中で、ありとあらゆる分野の知見に触れてきた。社会学、心理学、医学、脳科学、マーケティング・・・などなど。その過程から、それらの葛藤を自分にとって意味のあるものに変換しようと試みてきた。もちろん必要な知恵であり、知識だったのだが、それらを自分の中でまとめることのできる「言語」がなく、ある種のもやもや感が心には常にあった。

職を持たないという状況の中、自らのこれまでを振り返る中で、周囲の人と、正直に対話することがどうしても不足してきた、苦手意識を強く持っていたことを自覚した。
対話することで状況がよくなるとわかっていても、実際には、内なる恐れがそれをさせずにいたことが多くあった。

本当にひょんなことから、哲学に触れた。哲学というと、非常に難しく、あるいは、誤解を恐れずに言うと理屈っぽく、とっつきにくい分野だと感じられないだろうか。ただ、現在の私の、初心者的立場から言うと、哲学は、それぞれの人間の違いを知り、理解するための考え方のコツを提供していると思う。

今、私は「はじめての哲学的思考(著・苫野一徳)」という本を読んでいる。
ここでは、「超ディベート」(共通了解志向型会話)という手法が述べられている。これは、あるテーマに対して肯定側と否定側のどちらが説得力があったかではなく、互いに納得できる「第三のアイデア」を見出しあう対話のことだ。そのための思考のステップとして、以下が挙げられている。

①対立する意見の底にある、それぞれの「欲望・関心」を自覚的にさかのぼり明らかにする

②お互いに納得できる「共通関心」を見出す

③この「共通関心」を満たしうる、建設的な第三のアイデアを考えあう

第一のステップにある「意見の底にある、それぞれの欲望・関心」というのが、私が今日伝えたいことのポイントだ。
私たちは、それぞれにこれまでの経験の中で、ある種の「信念」をもって生きている。「信念」は人それぞれに異なっており、この世に絶対に正しい「信念」というものはない。
「信念」というのは、なかなか変えることができない性質のものではないだろうか。「あるべき」という主張は、時に平行線の議論を生みやすい。
著者は、「信念」は、何らかの欲望や関心によって編まれたものだ、と言っている。
欲望や関心は、その人固有の経験から生まれたものであり、経験に基づいている欲望や関心については、少なくとも「相手がこういう欲望を持っているということはわからなくもない」という理解を示しあうことはできる。
だから、「お互いの意見の根底にある、欲望や関心、そしてそれがどのような経験に基づいているのか」という出発点から、対話を始めることが示唆されている。

最近、こんなことがあった。

私の父は酒を嗜むのだが、私はほとんど飲まない。父は晩酌の時、私の悩みを聞こうとし、何かしら助言をしようとすることがある。そういう時、私はいつも悩みがあっても、あいまいにごまかした。私は、飲酒を悪いことだと思っていないが、例えば、悩みが大きいものであればあるほど、フラットに、冷静に受け止めてもらえる環境で、話を聞いてほしいと思うのだ。
そうした願いを、私はこれまで父に明かさずにいたのだが、つい先日、父に率直に話をした。

「私は、お酒を飲んでほしくないのではなくて、何か大事な話を聞いてほしいときは、冷静に受け止めてもらいたい。
だから、お酒を飲んでいない時に、話をしたい。そのほうがお互いに、良い方向に向けての話ができると思う」
と。

私は内心、父が気を悪くしないかと思った。
というのも、私はそれまで、「父がお酒を飲むから、私は父に本当の想いを伝えられない」と少し困っていた。それをそのまま相手に伝えても、完全には伝わらず、「じゃあ、お酒を飲むなというのか!唯一のささやかな楽しみで、量も自分で調整してるんだ!」と反発されることが多かった。

しかし今回、父は意外なほど素直にそれを受け止めてくれた。それまでに晩酌の際に話を聞こうとしたことを「悪かった」と言い、私の意向を尊重する姿勢を示してくれた。

私が本当に持っていた願いは、「私の本当の想いをちゃんと話したい」だった。その願いを起点にして、「だから、そのためにふさわしい場を作ろうよ」と提案すればよいと、この対話を通じて、気づいたのだ。

これは私の個人的な、また家族内での経験だ。一般化するにはあまりに小さな出来事かもしれない。
それでも、あらゆる場面におけるコミュニケーションや対話は、始まりは小さなことから生まれる。対話の中で生じた違和感やもやもやを、私は大切にしたい。そして、それを相手に伝えることはわがままでもないと思う。
自分の内にある「本当はこうしたい」という願いを、完全じゃなくても、正直に伝えることで、相手が理解してくれることがある。そして、私も相手のことをさらに理解することがある。
丁寧な対話の場が生み出されれば、その場はよりよい場になる。洗練された場になることだってあるだろう。

人は必ずネガティブな感情を持つ。それを感じないようにしたり、無視したり、無理やりに忘れようとしたりすることもできない。
自分の内に湧き出た感情を自分がちゃんと受け止め、そのさらに奥にはどんな願いがあるのか、自分の内側を観察すること。
そこから、他者との建設的な対話が始められるような気がしている。

哲学的な議論が自分にできるかどうかは別として、哲学的思考を知ることで、思ってもみないような、ある意味ハッとするような気づきが、私は得られている。とても楽しい。

哲学だけじゃなく、対話や場づくりについて話ができる人をほかにも見つけられたらいいなというのが、私の今の願いのひとつ。

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