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「悲しみの果て」にあるもの|エレファントカシマシの歌詞を読む。

エレファントカシマシの「悲しみの果て」は1996年に発表され、
今ではエレカシの代表曲のひとつとして、多くの人に知られている曲だ。

私がこの曲を初めて聞いたのは15歳の時。
撃ち抜かれるような衝撃を受けた。

肯定的な要素が排除された歌詞の始まり方、
極端なほどに単純化されたアレンジ、
こんな歌は聞いたことがないと思った。

悲しみの果てに 何があるかなんて
俺は知らない 見たこともない
ただあなたの顔が浮かんで消えるだろう

悲しみに触れたとき、人は意識を下に向けることが多いと思う。

・悲しみに「沈む」
・悲しみの「底にいる」
・「深い」悲しみ

といったように、悲しみの「深さ」にフォーカスして、
垂直方向のマイナスへの感情の動きが表される表現が多い。

一方で、宮本浩次は、悲しみを修飾する言葉として、
「果て」と言っているのだが、
「果て」には、「物事の終わり」という意味があるのはもちろん、

年月を経過したあとの状態 
広い地域の極まるところ。いちばん端の所

出典:デジタル大辞泉(小学館)

という意味もある。

「悲しみの果て」とは、
悲しみの年月を経過した後、
悲しみの最後にある場所のこと。
水平方向に自らの姿勢を向け、
すさんだ荒野を進んでいったその先にあるもので、
マイナスの方向に向かった「底」を目指したものではないのだ。

主人公は、悲しみや絶望の中にいるのだが、
その悲しみが自らにもたらす意義について、
この時点では考えることができていない。
作者である宮本は、この悲しみに「果て」という言葉を
冒頭から使うことによって、
悲しみの結果にある「光」を示そうとしているように思える。

なぜなら、悲しみの中にいても、主人公には、
「あなたの顔が浮かんで消え」ていて、
今、主人公のいる場所は、悲しみの最後にある場所ではないのだ。

涙の後には 笑いがあるはずさ
誰かが言ってた 

どうしようもない絶望の中で、
だれかは思い出せないが、だれかに言われた言葉。
主人公の心の底に元々あった想いが、ふとよみがえっているのかもしれない。

本当なんだろう
いつもの俺を笑っちまうんだろう

しかしここで、その言葉を「本当なんだよ」「笑っちまうんだよ」とは断言しない。
自信をもって「涙の後には笑いがある」と言い切れはしない、
その言葉への、わずかな疑い。
けれど一方で、そうありたいと願う切なさがにじみ出る。

部屋を飾ろう 
コーヒーを飲もう
花を飾ってくれよ
いつもの部屋に

ここで、物語の風景が一変する。
悲しみの荒野にいる主人公がいるのは、自室。
何の変哲もない、日常生活の場所だが、
この部屋に、花を飾り、いつもと変わらずコーヒーを飲む。
自分が生きている今を肯定し、
大切な誰かにも、そのことを誇りに思ってほしいと願っているのではないか。

悲しみの果てに 何があるかなんて

冒頭の歌詞のフレーズがここでもう一度繰り返されるが、
ここでの意味は、微妙に異なるように思える。

Oh Yeah

と叫び、「悲しみに意味があるのか?」と思索する自らの想いを吹き飛ばす。
そして、高らかに宣言する。

悲しみの果ては 素晴らしい日々を
送っていこうぜ

悲しみはなかったことにはならない。
ならば、悲しみの果てまで、それを引き連れていこう。
そして、「涙の後には笑いを」と切なく願っていた主人公は、
「素晴らしい日々」を自分でつくっていくと決めた。

この歌については、東日本大震災発生直後の特番で、
俺たちの『希望の歌』だと思って歌っている曲です
とぽつんと話した後演奏されたものが、
ベストテイクだと思っている。

レコード会社の契約が切れても、
音楽で生きていく希望を捨てなかった
男たちの歌は、力強く、そして優しかった。


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