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会社立ち上げメンバー募集

みなさんこんにちは!
rikiyaです。今回は一緒にイノベーションを起こすメンバーを募集します。

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自己紹介

名前:松川 力也【23歳】
在住:東京都【福島出身】
経歴:14歳で脳内出血を発症、後遺症として左半身麻痺が残る。
14歳で今まで『当たり前』に出来る事が出来なくなり、絶望する。その後、障害を強みに変え生きていく事を決意。21歳で言語聴覚士を取得、当事者セラピストとして総合病院に勤務。病院・病院外で当事者と話していく中で就労問題を感じ就労支援に転職し就労の現場を学ぶ。今年3月に会社を退職し現在起業準備中
活動:・障害者特化メディア 代表
   ・医療・福祉イベント 主催者 (平均参加者:75名)
   ・一般社団法人脳卒中フェスティバル 理事
      ・講演活動(昨年5回)
ビジョン:”障害と生きる方の人生が夢と希望を持てる環境を創る”

健常者から障害者になり、人生が変わった

私の病気について説明します。
私は、生まれつき脳動静脈奇形という10万人に1人の病気を持ち生まれました。ただ、この病気を知ったのは脳内出血を発症した後です。
病気は突然おとづれ、私から『当たり前』に出来ていた事を全て壊していきました。例えば、走る事・両手を使ってご飯を食べる事です。今も後遺症が残っている為、走る事も両手を使用してご飯を食べる事も出来ません。

発症した時は、兄と2人で夕飯の鍋を食べていた時でした。左口角から食べ物が落ちる現象が2回程続き、食事するのを辞めて2階の部屋で寝ようと思い食器を片付けている時に私は倒れました。
そうです。この時に脳の血管が破裂したのです。数分後には、自分の左半身が動かない事に気づきました。涙が止まりませんでした。数分後には意識を失いました。

その後1週間、私の意識は戻りませんでした。その間に見ていた夢は今も鮮明に覚えています。真っ白い部屋に自分1人の夢、電車の車両に病院のベッドが沢山あるが自分1人の夢、様々な病院に入院する夢を見ていました。

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意識を取り戻す

意識を戻した直後は、状況の理解が出来ませんでした。自分がいる世界は、夢の世界だと思いました。翌日の夜中に目を覚ました時に障害者になった現状の理解が出来ました。同時に『死にたい』と心から思いました。

障害者として幸せに生きている未来が想像出来なかった。

その日に家族と救急治療室で面会をしました。家族が泣きながら僕を囲んでいる中、僕は2つの言葉を伝えました。1つ目は『高校に入学したい』
私は、小学生の時から高校に入学したら、アルバイトをしながら中型のバイクを乗る事が、自分の小さな目標でした。その目標を達成する為にも高校にはどうしても行きたかったんです。

2つ目は、『死にたいから死に方を教えてくれ』です。今はこの言葉を自分の事を大切してくれている家族に伝えた事にめちゃくちゃ後悔しています。
高校に行きたいと思う反面、暗い未来しか見えてなかった私は『楽になる方法』を意識を取り戻してから常に考えていました。

車椅子で受けた高校受験

その後、開頭手術を行い奇形を取り除きました。2回目の手術が終了し体調が落ち着いたのは、12月28日。高校受験まで残り1ヶ月の状況から病室で受験勉強を開始致しました。リハビリの時間以外は、小論文・面接練習をひたすら行いました。高校受験当日は、外出届けを書き車椅子での受験。
無事、3週間後に高校の内定が決まりました。

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地元の病院に転院・将来を考える日々

高校合格が決まった翌日に地元の回復期病院(リハビリを積極的に行う病院)に転院しました。この病院での出会い・経験が今の自分を作ったと思っています。入院生活に慣れ始め、少し余裕が出来た時期に私は、自分の将来を常に考えていました。当時の私は『お金持ち=幸せな人生』と思っていました。お金持ちになる方法を毎日探していたのですが、インターネットに書かれている障害者関係の情報は、全部が暗い情報でした。同時に障害者の平均年収が120万〜200万という事を知りました。その時に自分の人生は終わったと思いました。

絶望を感じたが、同時にこの現状を俺が変えてやる。と強気な想いも出てきました。この時に『障害』を強みに生きていく事を決め、この経験を活かせる仕事に就く事を目標にしました。その時に出会えた職業が言語聴覚士でした。

リハビリが努力をする楽しさを教えてくれた

10代で病気になった私に対して医療従事者の方は、いつも全力でサポートをしてくれました。私のリハビリのスタートは座る事からでした。本当に何も出来ませんでした。何も出来なかったからこそ、出来る事が増えて行くのがとても楽しかったです。毎日リハビリも全力で行いました。歩行の自主トレ許可が出た時は、1日2万歩歩きました。歩きすぎて怒られる事もありました。(笑)それだけ楽しかったんです。

4月から高校が始まりましたが、リハビリが重要な時期だったので私は学校に行かずに病院でリハビリをしていました。
高校は義務教育では無いので単位がないと留年してしまいます。私は入学2ヶ月後にこのままだと留年すると担任の先生から連絡がありました。
少し授業時間を変更して頂きました。私は毎日午前中だけ学校に行き、午後から病院に戻りリハビリを3時間続けて行う少しハードな毎日にを夏休みまで続けました。

バリアばかりの学校

夏休みが終了後、私の高校生活が本格的に始まりました。
私が入学した高校は150年の歴史がある農業高校で1年生の教室は3階、男子トイレは全て和式のバリアが多い学校でした。
そんなバリアが多い環境だったのですが、私は困ったり、学校に行きたくないと思う事はありませんでした。これは友人達がいつも支えてくれ他お陰です。障害者の私を普通の友人としてみんな接してくれました。

専門学校に入学

楽しい高校生活は、あっという間に終わり気が付けば専門学校に入学していました。生まれて初めて車の免許を取得し、活動範囲が広まり距離など感じる事なく遊べる幸せも感じていました。
その影響もあり、3年課程の学校で2年間は友人と沢山遊んでいました。ただ、3年生の5月にこのままだったら国家試験に合格する事が出来ないと思い。勉強を始めました。地頭が良くない・脳に出血によって脳のパフォーマンスが落ちている事が分かっていたので『勉強の仕方』・『1日の過ごし方』を最初に勉強しました。私は1つの目標に本気になると周りが見えなくなります。よく友人に『そんなに勉強したら頭おかしくなるよ』、『たまには休んだら』と言われていました。

必ず合格する、自分の様に希望を失ってしまった人に希望を与える。これが自分の使命だと毎日自分に言い聞かせていました。

努力が実り合格率60%の試験に合格出来ました。

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世界を目指して上京

学生時代に遊び以外に夢中になっている事が1つありました。
それはパラスポーツ(F37砲丸投げ)です。入院時の知人に誘われ18歳の時から競技を始め、全国の大会に出場し国体優勝しました。
スポーツの楽しさに気づき、勉強と両立する為に毎朝5時から1人で練習をしていました。動作分析を20歳の時に専門家の人にして頂き、2年間確り練習すれば、世界に行けると言われていました。(当時残り1mでアジア大会参加標準記録突破レベル)

世界で挑戦したい

福島にいたら、成長できないと思い上京し新たな環境で挑戦する事を決めました。スポーツ活動に協力的な職場、専属トレーナーを知人に紹介して頂きました。この環境に行けば、自分に甘える事が無くなり世界に行けると思ってました。

入社直後約2ヶ月の自宅待機

そんな順風満帆な未来は訪れる事はありませんでした。
入社直後に病院でクラスターが発生し約2ヶ月間自宅待機になる。
外出が完全に禁止だった為、スポーツの練習も全く出来なくなりました。

何の為に上京したんだっけ。

毎日、1人で上京した理由を探していました。
その時に自分の目標は世界で活躍することではなく
『障害と生きる方が希望・夢を持てる社会を作る』事であると気づきました。その頃から、本格的にビジネスの勉強を始めました。

SNSで知り合った方の紹介で転職

自分の経験・考えをSNSで発信する様になり、病院外の知り合いが沢山出来ていました。そこで就労問題の重要性に気づき、SNSで就労支援の会社を経営している社長を探しアポイントを取りお会いしに行きました。
ご縁がありその後埼玉のA型就労支援に転職しました。
転職後、現場で仕事をすればする程、利用者の可能性・就労支援の可能性を感じていました。

成長しない自分に落ち込む

周りの期待と自分に自信があった私は、ガムシャラに仕事をしました。ノーコードでサイト構築を当事者の方が出来る仕組みを作り、1人でも多くの方に稼ぐ機会を作りたいと思いプログラミングスクールに通いました。でも自分のリテラシーが低く、事業まで持って行くことが出来ませんでした。
他にも軽作業が上達しない自分。仕事以外にも一緒にサイトを作っていた当事者のメンバーが2人チームから抜け自分1人になっていました。
出来ない自分に絶望しながらも、毎日パソコンを叩き自分が出来る事を一生懸命行いました。ある日突然、メンタルが崩壊し朝起きてから涙が止まらない日がありました。仕事の休みを頂き、病院に行きました。脳内出血の病歴がある私は脳神経外科の診察を受けました。診察後、私は精神科の紹介状を頂きました。多分うつ病だと思われたのでしょう。(結局病院には行きませんでした。笑)後日上司と面談し『りきやは夢が大きいから独立して夢を追いかけた方がいいよ』と言われました。翌日に半年後に退職し独立する事を伝えました。

オンラインを活用し1人でも多くの方の社会参加の環境を増やす

お待たせ致しました!
今から私がこれから行う事業について説明します。

障害者団体マッチング・ライフプラン構築・就労
この3つを実施します。障害当事者の社会参加を全体的にサポートします。
”人は環境で人生が変わると”私は思っています。だからこそ、その人が合う環境を人生の選択肢として伝えたいと思っています。

1年後には業界で有名になり
2年後には業界の中心を目指しています
3年後には医療業界に就労をコンテンツとして提供します
最終的には、障害という概念が消えた社会を創ります。

募集条件

webメディアメンバー:・当事者
           ・パソコンを持っている方
           ・何か挑戦したい方

ご連絡先→  Twitter  Instagram

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