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素直な少年の話。

「理想的な対象に対して、その理想的な印象が永続するものとして期待して接する、素直な少年。」

親友がこう僕を定義する。

自分が長く大切にしている親友からのこの言葉は、ともすると傷つける危うさを備えているけれど、
この一言には裏と表の意味が渾然一体となった、球体のような形をしている。

滑らかに、心の襞を撫でていく。

僕は、素直な少年。眼の奥にまだ見ぬ憧憬への炎を点し、
理想と現実が一致することを望んでいる。

だが、印象とは、永続的では無い。
人は確固たる印象を信用するが、実際は一分一秒たりとも同じ形を持たない。
印象の先にあるもの、それが愛であるとロラン・バルトは言う。

私の本質、つまり私がそうであるところのものは、私の状況や年齢に応じて変化する無数の写真のあいだで揺れ動く、不安定な私のイメージが、私の《自我》(言わずと知れた深い《自我》)と常に一致することを欲しているのだ。
だがしかし、事実はまさにその反対である、と言わなければならない。
私のイメージと決して一致しないのは、《自我》の方なのである。
というのも、イメージの方は重苦しく、不動で、頑固である(そのため、社会はイメージの方を信用する)が、《自我》のほうは、軽快で、分裂し、分散していて、まるでもぐり人形のように、私という容器のなかをたえず動きまわり、同じ場所にとどまっていないからである。
(中略)遺憾なことに、「写真」は為すべきことをきちんと果たそうとするから、私は常にある表情を与えられてしまう。私の肉体は、消してゼロ度の状態になることができず、また誰もそれがゼロ度であると思いはしない。(そう思ってくれるのは、おそらく、私の母だけであろう。というのも、イメージの重圧を取り除いてくれるのは、無関心=無差異ではないからだ––指名手配の犯人のように見せることにかけては《スピード写真》のたぐいの、《客観的な》写真にしくものはない。イメージの重圧を取り除いてくれるのは、愛、極度の愛なのである。)

私たちは、深い自我と印象=イメージが一致して欲しいことを望んでいる。
だけれども、私たちの奥底にある深い自我は、たえず変容し、また様々な環境要素などを加味すると常にある一定の形を保てない。だから人は、その人のことを「誰それ」という不動で頑固で重苦しいイメージで定義しようとする。
唯一母親の愛情だけが、たとえ息子が指名手配犯となって「犯罪者」としての重苦しいイメージを背負わされたとしても、そのイメージの重圧を取り除くことができる。
深い自我である本質的で不安定なイメージ=(ゼロ度の状態)への探求(この探求という言葉が正しいかは、まだ自分でも判然としていない。)こそが、愛だと。

そして私は、このことをよく知っているわけだが、そのように考えると「理想的な印象」というものは永続的でないこともわかっている。

愛したいと思った人ができたとして、
その人の印象が、まさにゼロ度であることを欲している。

つまり、私が愛した人の理想的な印象は変容してもなお、理想的であることを欲しているのだ。

これを、「素直な少年」だと形容するには、少々皮肉が含まれている、と思う。

だが、私はそういう人間なのだ。そして友人もまた、そんな私に外連味たっぷりの言葉を送りたかったのではない。

こんな私がいつまでも少年の心を捨てずに、生きていて欲しい、そんな意味が込められている。

それが、僕という人生の一幕を遠い彼の地で想い続けてくれている彼女なのだ。




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