日本に信仰は存在するのか?

 今まで私は、神とかを「信じる」ってのは、荒唐無稽な物語や説明を何の批判もなく受け入れることだと思っていた。「遠い昔、遙か彼方の銀河系でね...」「へぇ、そうなんだ」っていう具合で。まぁ、それも一種の信じ方だ。でも人が何かを信じるに至るプロセスはそれだけじゃない。

 もっと強固な信じ方のプロセスでは、人は一旦疑問を持つ余地が与えられる。自分が2000年前の人間で、キリスト教をまだ知らない平民だとする。宣教師に導かれ聖地(エルサレムなど)に訪れてみる。すると、荘厳な大聖堂では1000人を超える人々が働き、議会には神の彫刻が飾られているのを目の当たりにする。人々の日々の生活を支える紙幣には「我々は神を信じる」と書かれている。人々は聖書をまるで我が子のように大切にする。それらに触れていると、次第にこう考えるようになる。「もし神が存在しないとしたら、どうしてこんなものが作られるんだ?実在しない人間による存在しない恩恵のために、万単位の人間がわざわざ自分の人生を犠牲にしているなんて事が、あり得るわけがない。ここにいる人々が神をさも当たり前のように信じているのは、それが真実だからだ。」それらがある事によって、神がいると考えた方が整合性が感じられる空間が出来上がっている。つまり、それが「ある」と考えると手っ取り早く説明がつく事態がもう目の前で展開されているからそれを受け入れる。

 そう考えると、信仰の土台は信じているモノではなくて、それが「ある」ことを受け入れると成り立ちを納得する事が出来る状況、または受け入れないと成り立ちを納得することが難しい状況そのものということになる。

 イエスが世界を作ったと考えることで説明がつく状況。2000年末期に地球は崩壊すると考えることで説明がつく状況。地球は平面であると考えることで説明がつく天体の観測結果。それらの理屈を用いて状況に納得する人が支配的になったときに、信仰が発生する。

 日本には、「常識」があると考えることで簡単に説明がつく状況がある。後輩が先輩にタメ口をきいたことで殴られる。就業時間になっても誰も帰らない。男性を立てるのが上手い女性が実際にモテる。などなど。これらは「常識だから」という説明を受け入れる事で簡単に納得出来るし、逆に、それを受け入れないとなかなか納得できない。

 ということで、日本に信仰は存在する。なぜなら、常識を受け入れる事で簡単に状況に納得している人々が沢山いるからだ。もちろん納得していない人もいるけど、そっちは「支配的」じゃないからね。

 ところで、どうして日本の紙幣には「我々は常識を信じる」と書いていないのだろう?それはまた後で考えよう。
  

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