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自分の心に気付いた日



適応障害と診断されました。

不安感・集中力低下、消化器症状。
他、パニック障害の疑いあり。


 職場で2時間ほど泣き止むことが出来なかった日があった。首より上が重くなり帰宅するのも困難だった。頭の中の彩度は低く、後頭部と眼球の丁度真ん中辺りがじんじんと聞こえそうな程痛かった。どうしようもなかった、どうにかして欲しかった。だが、一人にして欲しかった。

 ある日の深夜、胸焼けのような胸騒ぎのような気持ち悪さがあった。コップ一杯の水を一気に飲み干し、ベットに戻るといつの間にか眠りについていた。翌朝、立てないほどの腹痛が私を襲った。もう動けない。もう本当に無理かもしれない。職場に連絡をして仕事を休んだ。数日後には、上司との重要な面談が控えていたので余計にプレッシャーだった。面談の書類をなんとか自宅でまとめ、当日は目が腫れたまま出勤した。私の様子を察した上司は面談をせず、ただ頷いて私の話を聞いてくれた。ここから5日間の休みをもらい自宅で過ごしたが、一向に気分が晴れなかった。頭痛も数日続き頭が破裂しそうだった。いや、もう何度か破裂した。

 正直、私に限ってこんなことにはならないと思っていた。鬱やネガティブのウイルスは誰でも持っていてそれが表に出るか出ないかの違い、と聞いた事があり、そこから若干の憂鬱も気にしなくなった。気分が落ち込んだ時には「考えすぎ」と言い聞かせた。ひとりで遠出をしたり、好きなものを好きなだけだけ食べたり、自分自身の機嫌をとる方法は知っていた。多少の嫌なことも飲み込み、それなりの振る舞いが出来ていた。それが私の強みだと思っていた。でも、いくつかのピンチを救ってきた誰かの魔法の言葉や、自分に言い聞かせてきた言葉でさえ、信じる事が出来なくなる日がやってきた。

 上司との面談で心療内科の受診を勧められたが、気が進まなかった。
 熱っぽい時は、体温計で熱を測らない。熱があると確信してしまうと、さらに体調が悪くなる気がするから。Apple Watchを無くしたときは引越しのギリギリまで、部屋中を探さなかった。「何処かにあるかもしれない」が「ない」という現実に変わってしまうから。診断が下ったら現実を受け止めざるを得ない。病気であることを認めたくない。でも、このまま有給休暇を消費しながら休んでいるわけにもいかない。当日にならないと出勤できるか分からないことで、職場にも迷惑をかけてしまうことも嫌だった。

 電話で予約を取ろうと近所の心療内科に電話をかけたが、二週間先まで初診は予約できない、と断られた。二週間は待てない。今すぐどうにかしてどうにかして欲しいのに。今すぐ話を聞いて欲しいのに。今すぐ楽になりたいのに。そう思いながら「分かりました」と言って電話を切った。もし、私よりも精神的に弱っている人が断られたら、その人は死んでしまうのではないか。もし本当に死んでしまったら、責任は取れるのだろうか。極限状態の人間なら、病院の予約がすぐに取れなかったというストレスが自決の動機にだってなり得る。だがその真実は遺書に書かない限り分からない。あったかもしれない誰かの過去や、来るかも分からない自分の未来のことを真剣に考えた。
 病院や美容室の予約が直ぐに取れないことなど今まで沢山あった。「私の行動が遅かったのか、仕方ないか」とすんなり諦める事もできたし、待つことだってできた。それが今では、予約が取れなかったことで人の自決の動機を考えるところまできた。怒りでも悲しみでもない感情が込み上げてきた。この感情が病院に対するものか、自決した頭の中の人に対してか、それとも自分に対してかは分からない。そのあとはしばらく胸が苦しかった。ここで何となく自分の気持の変化を自覚した。

 翌日、ダメ元で直接心療内科へ行った。当然、すぐには予約は取れなかった。「他にも患者さんがいますので」と言われた瞬間、数人いた受付の事務員が全員が敵に見えた。もう泣いてしまいそうだった。病院のスリッパを戻すため下を向いた瞬間、当たり前のように涙が溢れた。

 泣きながら事前に調べておいた別の心療内科に向かった。また断られたら敵が増えると思い、ここもダメだったらもう自宅に帰ろう、そう決め身構えて病院へ入った。案の定、この病院でも「来週まで予約が埋まっています」と言われた。
 だが、「今すぐの受診は難しいですが、○日でしたらご予約できます。今はどのような状態ですか」と聞いてくれた。アクリル板越しに、自分の身体と心に違和感を感じ始めた頃からの症状を覚えている限り話した。話しているうちにまた涙が溢れてきた。さっき行った病院での出来事も話した。ただ、話を聞いてくれた事が唯一の救いだった。予約の日まで、あと少しだけ耐えよう。そう思えた。

 それからの数日間、短時間で出勤したが3時間勤務した辺りで胸が苦しくなった。なんとか出勤しても、圧迫感と激しい動悸のせいで仕事にならない。周囲の目も気になるようになり、休憩中はすぐトイレに駆け込み一人になった。休憩が終わる直前には常温の水を一気飲みして自分を鼓舞した。以前よりどっと疲れる。身体がだるい。早く帰りたい。なるべく人に会いたくない。私のことなど誰も知らない場所へ行きたい。短時間の勤務に調整してもらったにも関わらず、出勤した日は毎日そう思った。


 初診の日、待合室で待っていると診察室から女性の甲高い笑い声がした。恐らく彼女は少しずつ以前の生活が送れるようになってきたのだろう。この後が私の診察だったらどんな入り方をしたらいいのだろうか。前の患者さんの余韻で、先生がまだ笑っていたらどうしたら良いのだろうか。どこから話せばいいのだろうか。言葉に出来ない内側にあるこの気持ち悪さは、なんと表現したら伝わるのだろうか。そんなことを考えていると診察室から女性が出てきた。ごく普通の人だった。道ですれ違っても違和感なく見える人が、絶対に誰にも共感し得ない奥底にある恐怖や不安、苦しみを抱えて、それでもどうにか生きようと、この場所に来ていると思うと「みんな、そうなんだ」と少し安心した。

 そんなことを考えていたら、名前を呼ばれた。
重い戸を横に開くとニコニコしたおじいちゃん先生が座っていた。泣きながら話した事と、「僕はね、うちに帰るとあまり話さないんだよ」と言われたこと。それしか覚えていない。おじいちゃん先生に何と返答したかも覚えていない。

 抗うつ剤と漢方をもらって、上司に電話で診断の結果を伝えると、すぐさま休職の説明をされた。説明を受けている間も、明日も出勤の予定だったのに代わりに誰か出勤出来るかが心配だった。繁忙期に休むということが本当に申し訳なかった。罪悪感で押し潰されそうだった。「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません」と言うと、「迷惑なことなんてないよ、今はしっかり休む時期だよ」そう言ってくれたが、正直なところ本心が分からなかった。こんなことを考えてしまう自分も嫌だった。



 こうして休養に入り、うつ病や適応障害について調べてみたが、はじめに書かれていることはどれも似たものだった。『近年は病気に対しての理解が広まりつつあるが、残念ながら理解されないこともある』休養といっても、捉え方によっては「逃げ」になることは分かっている。自宅で過ごせば症状は出ないことの方が多い。自宅での過ごし方を知ったら仮病と思われるかもしれない。だけど、今は全てから逃げることを決めた。体を動かさず、じっとしていると繁忙期に仕事を休んでしまったことへの罪悪感や、今後のキャリアのことを考えていた。気付けば声をあげて、泣いていた。こうなった原因は一体何なのだろう。考えれば考えるほど胸が苦しくなり、本心から遠のいて行く気がした。考えることをやめたいのに、頭の中では同じ道を何度も何度も歩いていた。そんなことの繰り返しだった。

 深夜、訳もなく涙が止まらなくなった。近くのコンビニまで歩いてビールを買いに行った。歩きながらビールを飲んでコンビニの向かいマンションの駐車場でビールを飲み干した。5月なのに夜風が冷たい。誰もいない。当然誰も迎えには来ない。自分で帰るしかないんだ。私は1人だ、そう思った。好きだった本屋さんに行けば悲しくなった。SNSを見ても疎外感や嫌悪感を感じた。

 人が怖くなり、腹痛と頭痛と胸の痛みと憂鬱さに押し潰されそうになり、子供のように泣きじゃくった日があった。もう何もしたくない。私はもう何もできない。人に会いたくない、消えてしまいたい。と何度も繰り返して口にした日があった。
 心配した両親は毎日のように連絡をくれる。症状を聞いてくれたり、「何してるの?」と、束縛強めの彼氏みたいなLINEを頻繁に送ってきてくれたり、実家の畑の写真が送られてきた。
 誕生日には母子手帳の写真を送ってくれた。私が産まれた時間・体重・身長をちゃんと見たのは初めてだった。これまでの25年間、人生の分岐点に立った時、いつも真っ先に相談するのは母だった。分娩の所要時間をみた時、どれほど大変でどれほど苦しかったのだろうと、感謝の気持ちでいっぱいだった。言いたいことは沢山あったが、「産んでくれてありがとう」一言だけ伝えた。母は、「何もできなかった」と私に言った。母の言葉はあたたかくて、とても優しい重みがあった。同時に責任を感じさせたくないと思った。どんな姿でも生きていたいと思った。

 それでも実際は、人に会うには相当労力が必要だった。調子が良いと思って知人に会ってもいきなり落ち込むとこがあった。会話の最中も心から笑えなかった。自分がどんな顔をしているのか相手の表情を通して分かった。自分のことを誰にもみて欲しくなかった。
 会社が手配したカウンセラーの話を聞いて、心理学の本を読んだ。植物の育て方を調べて、植物に水をあげた。押し花を作って、キャンパスに貼り付けた。ネイル、化粧品、ファションに時間とお金をかけた。百合のような女の子に会った。妥協だらけの条件で仕事を探した。詳しくない町で写真を撮った。家出をして始発を待った。食べたいものを思う存分食べた。
 心から楽しいと思うことが沢山あったが、満たされないことの方が多かった。それでも、もう死のうとは思わなかった。

 土のエネルギーがはすごいと色んな場面で聞いたことがあった。本当かどうかは分からない。キッチンでは豆苗を、ベランダではレタスと水菜を育てた。毎日少しずつ伸びる豆苗は可愛かった。たくさんの小さな芽が出たプランターを見るのは楽しいと思えた。たまに水やりが億劫になることもあった。植物の成長過程で、今のこの瞬間は今しかない事が特別に思えたので豆苗日記と称して写真を撮った。
 以前、自分自身の人生に対しても同じようなことを言っていたのを思い出した。今の私の気持ち、今の私の姿。私の中心の深い所にあるものを、素直にありのままに等身大の言葉で残した。今は、到底見返す事はできない。些細なことでイライラしたり、見過ごせていたのもが見過ごせなくなった。人に優しくできなくなった。まるで思いやりを使い果たしてしまったかのようだ。薬を飲むのも面倒に感じて飲まなくなったこともあった。

 なぜ気分が優れないのか、なぜ機嫌が悪いのか、なぜ悲しくなるのか。病気のせいではないのかもしれない、元々私の備わっていたモノが引き出されたのかもしれないと思った。引金はなんだったのだろう。はたまた、私が押し出したのだろうか。負の感情をしまっておいた引き出しは開いたままなのに、今まで丁寧に詰め込み過ぎたのか、どうも綺麗に出ていかない。どれだけ吐き出しても、底の方にはぺしゃんこになった負の感情がこべりついていて剥がれない。

 とにかく今は「暇」か「苦しい」のどちらかで、何もしたくない私、何も見たくない私、誰とも話したくない私、どこかが痛い私、が私に宿っていない合間を縫ってこれを書く。
 特にこの文章を通して言いたいこと、伝えたいことはないです。一つだけ強いて言うのであれば「誰にも何にも、決して期待はするな」そう過去の自分に言いたい。







2024.02.22

日記の最後を投げやりに思いやりなく終わらせてしまったことで、少し前の私の状態がよく分かる。

今でも、たまに思いやりが無くなることはあります。

それでもいいんです。
これが私ですから。


自分を思いやることができる人が、周囲にも思いやりを持って接することができる。周囲ばかりを思いやっていると、いつの間にか見返りを求め、知らぬ間に満たされない自分が大きくなっていく。

思いやりは思う存分自分自身へ向けること。

それに気づいた私は強い。

終わりでも始まりでもないこの経験は、ただ人生の過程。

今は、側にいてくれる人にありがとうの気持ちを込めて「おはよう」と言いたい。


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