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子どものころに心に刺さったとげを抜く方法

疲れが溜まってきたとき。ふいに昔の出来事が呼び起こされて、いやな気分になることがある。
その夜もそうだった。

ふとしたきっかけから、祖父の亡くなったときのことを思い出した。

初雪の降った夕方。私は8歳だった。
車が途中で止まったような気がするとか、お別れを言えなかったこととか、いろんな日とがどんどん家にやって来たとか、ずるずると記憶の底から引き出されてきた。

そして最後に出てきたのは、思い出さないように無意識に鍵をかけていたらしい、灰色の、もやもやと燻った感情だった。


「急いで帰って来て」

母から電話口で聞かされたのは、確かそれだけだったと思う。なにかわからないけれど、よくないことが起こったんだ。不安にかられながら先生に「母に言われたので帰ります」と告げた。

そのとき、私は習い事の教室にいた。先生が大きなおうち(お屋敷といってもいいかも)で個人的にやっているレッスンだ。


家に帰ると両親は憔悴しきった様子で出かけるしたくをしていて、「おじいちゃんが...」と言われ、祖父の入院する病院へ向かった。車で5分もかからない距離が、とても長く感じられた。

病院についてからのことはあまり記憶にない。とうとう生きている祖父には会えなかったこととか、地下にある霊安室が子ども心にはなんだか怖かったこととか。
覚えているのはそれくらい。

そして、慌ただしく動き回る大人たちのなかで、自分の胃のあたりをちくちくと突いていた"罪"の意識。

祖父はいつも元気そうに見えたから、お見舞いに行くのをいやがった日があったのだ。しかも理由は怪盗セイントテールのアニメを観たかったから。結局父に連れられて行ったのだけれど、そのとき「行きたくない」と思ったことをとても恥じ、悔やんだ。

こんなにも突然、いなくなってしまうなんて。考えてもみなかった。

死という言葉はもちろん知っていたし、意味もわかっていた。でも、自分の身近で起こることには思えなかった。どんなものか想像しないようにしていたし、また、想像することができなかった。そう、私がはじめて亡くした人が祖父だったのだ。



祖父は小学校の先生をしていた。小さな海辺の町で、知らないおじいさんやおばあさんがよく祖父を見つけては、子どものような笑顔で「先生、先生!」と駆け寄ってきた。

私に読み書きそろばんを教えたのも祖父だった。家庭で親が教えるというより、それはりっぱな「授業」だった。
祖父の用意したお手本を使って字の練習をしたり、そろばんの問題も半紙にたっぴつで書かれたお手製のプリントが用意された。

幼稚園のお迎えに祖父が来てくれるときもあった。「ケンちゃんがいじわるした」と言いつける私に、「ケンちゃんは凛ちゃんのことが好きだから意地悪するんだよ。男の子ってそついうもんだ」と笑った。

祖父は、喫茶店に行くとクリームソーダを頼んだ。ペロペロキャンディーが好きで、小さく割って取っておいて、少しずつ食べていた。ピーマンが嫌いで「好き嫌いなく食べなさい」と、理不尽に私のお皿に移した。

まじめで、愛される教育者で、でも、へんなところに茶目っ気のあるおじいちゃんだった。


通夜、葬儀といった一通りのことが終わり、しばらくは放心していた。むしろ、なくなってすぐの時期はまだよかった。年の近い、物心ついてはじめて会ういとこも家にやってきて、みんなで話したり、遊んだりして気が紛れたのだ。
でも、終わってみると、ただの骨になってしまった祖父の姿が思い起こされて、何度も泣いた。


ややあって、久しぶりに習い事の教室に行った。

先生は私をみるなり、「おじいちゃん、亡くなったんだって?」ときいた。

「御愁傷様」とか「大変だったね」とか、そういうことを言われるんだろうと思っていた。大人のひとたちはみんなそう言っていたから。
でも、先生の口から出たのはまったく予想もしない言葉だった。

「そうだと思ってたのよ。だって、おじいちゃんが教えてくれたの!」と、やや早口で、興奮ぎみに続けたのだ。
びっくりして顔をあげると、先生はこう言った。

「こないだ、凛ちゃんが玄関を出ていくとき、外で葉っぱがガサガサ揺れたの。今思うとあれはおじいちゃんの幽霊が、私に教えてくれたのね」

きらきらした目をしていた。

なにを言ってるの?
おじいちゃんの幽霊がいたとして、なんで先生のとこに行くの?
おかしくない? 他人でしょ? 会ったことないでしょ?
わたしのおじいちゃんだよ?

頭のなかがぐるぐるして、ぼうっとしていると、先生は私の背中をぽんぽんと叩いて、こう続けた。

「きょうは一緒に語呂合わせを考えましょう! おじいちゃんの亡くなった年を忘れないために。
1、9、9、6。さあ、続けて!」

このあと無理やり語呂合わせを考えさせられたけど、なにも覚えてない。
ただ不快で、でもその感情を持つどう処理していいかわからずにしまいこんでいた。

習い事はそれから7年続けた。でも、私の先生への気持ちは尊敬ではなく、苦手に変わっていた。
必要以上に会話するのを避けるようになった。練習も楽しくなくなった。

しまいこんだ感情のせいで、どうして先生をいやだと思うのかわからずに、ただ自分を責めた。人に対してそういう悪感情を持っちゃいけない、と。

先生の言葉。押し込められた私の感情。
これは、子供のころ、私の胸に刺さったまま抜けていないとげだ。


あれから20年以上が経った。
ふいに開いた記憶と感情の扉。溢れ出すものを元に押し込めることはできなくて、私は、自分のこころのとげを抜いてみることにした。

娘の添い寝中だったのでできなかったけれど、ふだんならば、とりあえず掃除や片づけをする。激情があふれているとき、冷静に考えることはできない。それに、手を動かすだけでも無心になり、気持ちが落ち着くのだ。

それから、当時自分が感じた気持ちを思い出してみた。

それは複雑にからみあった怒りだった。
8歳だとはいえ、先生の言っているのは思い込みだと感じた。霊感がないので「霊がいない!」とは言い切れないけれど、先生のはこじつけだと思ったのだ。

語呂合わせなんか考えたくなかった。そんなことしなくたって、20年過ぎても覚えてる。

祖父が亡くなったことを軽んじられている、むしろ状況を楽しまれているような気がして、許せなかったのだ。


そうして感情をすべて洗い出してみたら、怒りのない、フラットな立場で先生を見つめることができた。

実は、ほかにももやもやすることはあった。

でも、楽しかったことも、尊敬していることも、確かにあったはずだった。いきなり山菜採りにつれていかれたり、大人の味すぎるハーブティーが出てきたり、お正月には神経衰弱大会をしたり。そして、この出来事があるまで、私はむしろ先生が大好きだった。ハーブティーは酸っぱくて、涙目で1時間かけてやっと飲んだけれど「子ども」として扱わなかったのは、先生くらいだったから。

でも、祖父のことで心に生まれた怒りが歯止めになって、先生のいい面を見つめることを拒んでいたんだと思う。無意識にいやなところばかり探していて、そして、自分のこころの醜さに傷ついた、そういう感じ。


心のなかでもやもやしたって、別によかったのだ。先生の発言は配慮にかけていたのだから、自分の気持ちを伝えるべきだった。今はそう思う。私が失敗したのは、その感情の正体がわからずに、ただ先生に嫌な気持ちを抱き、同時にそうした自分を責め続けて苦しんだこと。

深夜に過去と向き合ったおかげで、心に刺さったままのとげは抜けた。とてもすっきりした。

なによりよかったことは、祖父と過ごした時間をたくさん思い出したこと。思い返すと、とても幸せな子ども時代で、涙が止まらなくなった。
私は先生への強い怒りの気持ちを隠すために、祖父との楽しい思い出も押し込めてしまっていたのだ。ペロペロキャンディーのことなんてすっかり忘れていた。ほかにも数えきれないくらいの、小さな思い出があふれてきた。

先生への気持ちも変わった。

これまで、地元に帰ったときも、先生のうちは近所だから、ばったり会わないようにいつも気になっていた。でも、これからはそうは思わないだろう。自分から訪ねることはない。

でも、もし出会ったら笑って挨拶できると思う。懐かしい話もできると思う。


私たちは、自分でも無意識のうちに、心に刺さったとげを隠そうとしているのかもしれない。だから、ふとわけもなく辛くなったときは、それを1本1本ていねいに抜いてあげる。

毎日を機嫌よく過ごすための、小さなこつだと思っている。


▼今回、自分と向き合うために使ったのは、ふだんの気持ちのリセットに使っているこの方法。動く。気持ちの輪郭を探る。気持ちに寄り添う。この3ステップです。

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