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ベルリ・ゼナムは「ニュータイプ」を超えられるか?:劇場版『GのレコンギスタⅠ』後編


はじめに

「脱ガンダム」を目指す劇場版『Gのレコンギスタ』。

『Gレコ』が本当に『機動戦士ガンダム』を超えられるのためには、『ガンダム』が紡いだ物語を超えなければならない。それはつまり、『ガンダム』に代わる①新しい少年の成長譚と、②新しい未来像を提示するということだ。

そこで、まず1章で、宇野常寛著作『母性のディストピア』を参考に、『機動戦士ガンダム』を「ガンダム」「アムロ」「ニュータイプ」という3つの視点から確認する。

これを踏まえて、2章では、『Gのレコンギスタ』でこの3点がどのように変わったのかを考察し、『Gレコ』が『ファーストガンダム』を超越する可能性を探っていく。

(劇場版をまとめた前編も公開されています。)

1‐1 「巨大ロボットはリアリティがない」

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主にハードSFの観点から、「巨大ロボットは実現不可能だから、リアリティがない」と指摘されることがある。しかし、殊アニメにおいて、この問いの価値はほとんどない。

その理由は、「ロボットにはロマンがあるから」といった趣味嗜好だけではない。

評論家の宇野常寛によれば、巨大ロボットは、少年が、機械でできた「偽りの身体」を得ることで、「理想の大人」に「成長」するためのものだった。そのため、当初のロボットものは、熱血ヒーローが「理想の身体」を手に入れることで、正義の名のもとに悪を成敗する勧善懲悪ものだったという。

そしてご存知のように、富野監督は、この「お決まり」を壊し続けてきた。『ガンダム』において、監督は「ニセモノの身体」という特徴を活かして、「身体だけ強くなっても、心は未熟なまま社会に出てしまった少年」を描き上げたのだ。

その少年こそ、主人公「アムロ・レイ」であり、『ガンダム』は、彼が一流の戦士になるまでの物語として描かれる。


僕の1章を読まなくてもゾルダン様が3分でまとめてくれてるんだなぁ。

さらに、『機動戦士ガンダム』では、映画的なリアリズムを使って、膨大で精緻な仮想現実=宇宙世紀を構築した。この宇宙世紀が、現実の歴史の代替物として機能することで、「現実以上にリアルな」世界が実現する。そして、「子を産み、育て、死んでいった」人々が実在するように感じられるのだ。

リアリティを持たせるために、「巨大ロボット」も変質を迫られる。「正義の象徴」であったロボットは、量産兵器「モビルスーツ」として、世界に無数に存在することになった。それ自体、何の信念も持たない「道具」として。

これを象徴する場面が、「ガンダムが奪われるシーン」だと思う。『ファーストガンダム』では、ジオン軍の工作によってRX-78が奪われることがある。アムロだって、そもそも勝手に乗り込んで操縦を始めたのだ。ガンダムは、主人公の絶対性を象徴する存在よりむしろ、ただの兵器であり、誰にでも扱える「道具」なのだ。

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もっと怒られてもよくない?

ユイの子である「碇シンジ」にしか動かせない「エヴァンゲリオン」とは正反対と言える。

1‐2 アムロ・レイが対面した世界

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少年アムロが、ガンダムに乗ることで、最強の身体を手に入れる。しかし、いくら強力な「道具」を扱えても、中身は変わらない。子供の心を持ちながら、大人の世界に参入すれば、当然社会に翻弄されることになる。

二度とガンダムになんか乗ってやるものか」と拗ねたり、「僕が一番ガンダムを上手く使えるんだ」と自惚れたりする彼は、等身大の子供そのものだ。彼が子供っぽい態度をとるたびに、ブライトを始めとする大人たちは、彼を教育する。

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「親父にもぶたれたことないのに!」という有名なセリフは、①彼が両親から人並みに愛されなかったこと、②彼の自惚れを注意できる大人がいることを示しており、ファーストガンダムのテーマの1つが端的に表れている。

またアムロは、ホワイトベースの仲間だけでなく、ランバ・ラルといった「大人の男性」や、マチルダやハモンといった「大人の女性」、そして、宿敵シャア・アズナブルと邂逅することで、人間的に成長していく。

監督の「演出ノォト」によれば、ニュータイプに覚醒する物語を描くうえで、アムロが「偏った人生遍歴」を辿ってはならなかった。そうしなければ、リアリティを担保できず、現実への批評性を失ってしまうからだ。したがって、彼が出会う人々は、現実世界と同じように、多様で、深淵な心を持っている。

父親から十分に愛されず、故郷を失い、孤独だった少年は、これらを通して立派な戦士に成長し、帰るべき共同体を見つけるのだった。

1‐3 「ニュータイプ」:近代的成長ではない未来像

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ここで重要なのが、アムロは大人になったわけではない。階級が上がるわけでも、家庭を持つわけでもないのだ。

綿密に構成された架空年代記の中で、現実と同等のリアリズムで少年の成長物語を描くことも、富野には可能であったはずだ。しかし富野はそうしなかった。アムロか近代的な大人の男に成長するのではなく、「ニュータイプ」という超越的な存在に覚醒した。(p.168)

彼は物語を通して、ランバ・ラルのような理想の大人にはならない。彼は、ニュータイプになるのだ。

宇宙に進出した人々は、その孤独な環境に適応するため、離れた人間とも意思疎通が可能になるーー。現実のしがらみに関係なく、言語を超越した誤解なき完全なコミュニケーションーー。

ニュータイプ。それは富野監督が考える新時代の理想像だ。

ニュータイプの力を使って、アムロは、ホワイトベースの仲間たちの意識に語りかけ、1人ずつ救っていく。孤独だったアムロは、ララァではなく、ホワイトベースの仲間たちを選んだのだ。『機動戦士ガンダム』が示した結論は、ニュータイプになり、仲間という共同体の一員になることだった。

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アムロ「ごめんよ、まだ僕には帰れる所があるんだ。こんな嬉しいことはない。」
血の呪縛を超え、自ら選び取ることのできる疑似家族的な共同体を「帰れるところ」とできることーーそれがニュータイプの、1つのあるべき姿として提示されたのだ。(p.p.169-170)

閑話 シャア・アズナブルとニュータイプの敗北

ニュータイプという華やかな未来像は、しかし、現実の前に敗北する。主題から逸れてしまうので今回は詳しく述べないが、ニュータイプの物語は、アムロの希望ではなくシャアの絶望に覆われ、一筋の希望の光は見せたものの、世界を変革できずに終わってしまう。「ニュータイプ」という理想は、『逆襲のシャア』を通して、一度完全に敗れ去られているのだ。

2‐1 Gセルフは、もはやモビルスーツではない

「ガンダムを超える」とは、「アムロ・レイ」のような新しい成長譚を提示し、「ニュータイプ」の呪縛を超えることだ。では、ベルリは何を得たのだろうか?

Gレコは冒険譚である。だからと言って、冒険の果てに得られたものが、「冒険という経験」では肩透かしも良いところだろう。

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もちろん、ベルリは冒険の中でさまざまな体験をする。19話で描かれるように、宇宙を体験する「楽しさ」や「ロマン」も、『Gレコ』の魅力の1つだろう。「君の目で確かめろ」というテーマとも合致している。

だが、同時に「何を確かめたのか」、「そこから何を学んだのか」を描くことも不可欠だ。『Gレコ』での問題は、大きく2つにまとめられる。

①「Gセルフは何者なのか?」、そして、②「宇宙からの脅威とは何なのか?」だ。

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ガンダムの文脈から考えると、Gセルフは、最早モビルスーツと呼べる代物ではない。なぜなら、Gセルフは、「ユニバーサルスタンダード」に対応していないからだ。

正確に言えば、操作系統は同じだが、レイハントン家の血筋を継ぐベルリとアイーダ、そして正規パイロットのラライヤ以外は、起動することができない。つまり、誰にでも扱える「道具」ではないのだ

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ビームの可能性は無限大

小形プロデューサーによれば、Gセルフの高性能は、「自分たちが何を造ったか分からないという科学技術の怖ろしさ」を象徴しており、「警鐘としての意味を含ませている」そうだ。

Gセルフは「ヘルメスの薔薇の設計図」に従って作られた、宇宙世紀時代の模造品である。したがって、制作者自身、その性能を把握しきれていない。搭乗者であるベルリ自身も、その性能を扱いきれず、悲劇を経験することになった。

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このような、科学技術の恐ろしさを知らずに踊らされる大人たちの姿は、『伝説巨神イデオン』を思い起こさせる。もしベルリが宇宙に旅立たず、キャピタルの一員であり続けたら、きっと同じ結末を迎えていただろう。ともすれば神にも悪魔にもなれるGセルフは、もはや扱いの効く「道具」ではない。「イデオン」のように、ベルリに正しい選択を迫っているのだ。

しかし、Gセルフは単なる科学技術へのアンチテーゼではない。同時に、ベルリたちを守るために、実の親が遣わした存在でもあるのだ。

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「Gセルフって、あくまでも貴様たちを救いたいっていうシステムなんだよな。」

レイハントン家の親が、手放さなければならなかった子供のために、「タブー」を破ってまで制作した機械。それがGセルフのもう1つの側面だ。

確かに、17話でアイーダが拒絶したように、この愛は身勝手なものだ。それでも、ベルリはGセルフに乗って、遠く金星まで向かうことができた。兵器という歪んだ形ではあれ、彼を愛する親がいた証であり、善意が込められている点は変わらない。

『Gレコ』が純粋な「科学技術の否定」に陥っていないのは、このような「科学技術の正しい扱い方」も描いているからだ。フォトンエネルギーは、それ自体が地球環境に対する完璧な解決策でもある。すべては使う人次第というわけだ。

2‐2 G(round)のレコンギスタ:世界の真相

「宇宙からの脅威とは何なのか?」 この問題は、「ヘルメスの薔薇の設計図」に並ぶ、もう1つの世界の真相に直結している。

富野由悠季の世界展にあたって行われたインタビューで、監督は次のように述べる。

ビーナス・グロゥブのような遠方から地球を統治できるのか、という要素を加えつつ、ビーナス・グロゥブ事態の目的を、宇宙の中で地球をいかに生存させるかというものにした。
地球圏が1000年単位で生存に適さなくなった場合に備えて、ビーナス・グロゥブは、地球そのものを別の銀河へ移動させて生き抜かせるための技術を蓄えている。こういう大きな距離感でもって、地球の再生を考える認識論を作りたいと考えたのが『G‐レコ』なんです。(p.403)
生き延びた我々は、少なくとも地球が自然治癒できるまでの長い時間を宇宙の中で潜むように暮らすしかないんだよね。そういう我々は悲しいよね。(p.405)

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これに基づくと、R.C.に隠された「世界の真相」は次のようなものだ。

かつて、地球に住めなくなった人類は、遠く離れた宇宙にビーナス・グロゥブを建造し、地球が再生するまで献身すると決めた。しかし、距離が離れすぎているため、ビーナス・グロゥブにいながら地球を統治することはできない。だから、「スコード教」を立ち上げ、扱いきれない科学技術を禁止し、宇宙エレベータやフォトンエネルギーを神聖視させることにした。

それから1000年が経ち、徐々に地球が回復し始め、国家間で戦争が起こるようになった。また、ビーナス・グロゥブでは、ムタチオンも発生した。これに受け、(地球ではなく)人類の未来を按じたピアニ・カルータは地球に「ヘルメスの薔薇の設計図」を流す。加えて、ドレッド家を筆頭に、回復し始めた地球に帰りたい人々が、「レコンギスタ」を計画する。

月の向こうには、1000年間地球を支えてきた人がいた。しかし、ベルリが宇宙中を回って判明したのは、彼らもまた同じ人間だったことだ。

世界は分断されていて、それぞれに異なる値観観を持っている人がいる。地球に住む人間たちのことを全く考えていない点で、ドレッド艦隊やジット団も、アーミィと何も変わらない。この世界に、地球からビーナス・グロゥブまでの全体像を把握している人は誰もいなかったのだ。

そして、世界を正しく把握していない人間は、相手を「想像する力」を持たず、道具も正しく扱えない。互いを理解しあえないまま、ついに、すべての勢力が憎しみあう最終決戦を迎えてしまう。

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2‐3 ベルリ・ゼナム(たち)の物語

冒険の中でベルリたちが知ったのは、単純な知識だけではない。

優秀な「賢者」が周りにたくさんいたアムロとは異なり、ベルリの学習は、極めて経験的だ。むしろ、18話で「教育で教わった知識は、自分で確かめなければ、真実かどうかわからない。」とアイーダが言われたように、トップダウンな教えを否定すらしている。

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ベルリたちが冒険で得たのは、静的な知識だけでない、たくさんの人々との出会いだ。スコード教の聖地を守ろうとするキャピタルの人々、スコード教の訓えに違和感を持つアメリアの人々、地球に帰りたがっているトワサンガやビーナス・グロゥブの人々、地球を再生させるために献身を続けるヘルメス財団の人々。

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みんな違うし、誰も完璧じゃなかった。けれど、みんな同じ人間だった。

多様な価値観を持つ人々とやり取りする中で、ときに悲劇を経験したり、自分の間違いに気づいたりもしてきた。自分の都合しか考えない大人たちのせいで、苦しむこともあった。

だが同時に、彼らはその背景にある、さまざまな思いにも触れた。これは、訪れなければ得られない貴重な学習だ。

キャピタルのウィルミット・ゼナムが、アメリアのグシオン・スルガンが、トワサンガのレイハントン家の先祖が、ビーナス・グロゥブのラ・グーが守りたかったものを、全て受け止めてきた。キャピタル・タワーを守り抜き、地球上の全人類がエネルギーに正しい理解を持ち、科学技術を正しく認識し、地球を再生させる重要性を認識してきた。

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すべてを体験したベルリとアイーダだからこそ、最終決戦を前に、次のように決意できるのだ。「戦争を止めなければいけない」と。

この決意は、親から押し付けられたものでも、先祖から受け継いだものでもない。敷かれたレールを辿って月に来たと知っても、ベルリとアイーダは、自分たちで生きる道を決めたのだ。

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旅を始める前、ベルリは宇宙エレベータの存在も、完全にクリーンなエネルギーの存在も、「当たり前」だと思っていた。「なぜこんなものがあるのか?」と疑ったことは一度もなかった。彼の想像力の限界は、ザンクト・ポルトで止まっていたのだ。そんな彼が「戦争はよくない」などと呟いても、誰にでも言えるから説得力がない。

しかし、いくつもの悲劇を経験し、R.C.に込められた願いを受け止めたベルリならば、相手の目線から「想像できる」ようになったベルリならば、それを自分の使命に昇華させることができる。

断絶された世界を横断して見つけた、自分の役割。地球の再生、つまり、「G(round)のレコンギスタ」は、ベルリたちにしかできないことだ。

とは言え、「世界の再生」は、Gセルフを乗りこなしたとしても、ベルリだけでは叶えられない。「Gセルフがあれば何でもできる」と考えて抱えこむベルリを、何度も支えるノレドが印象的だ。

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Gセルフは万能じゃないし、ベルリは天才じゃない。」(18話)
名前なんて希望でしょ? 名付けた人の保証じゃないよ」(23話)

そして、同時に、アメリアの姫であるアイーダ1人に押し付けていいわけもない。たとえ最強の身体を手に入れようとも、優れた血統があろうと、1人じゃ何もできないのだ。ガンダム乗ったアムロが理想を示しきれず、ジオンの末裔であるシャアが現実を超えられなかったように。

だから『Gレコ』は、ベルリがいて、アイーダがいて、ノレドがいて、ラライヤがいて、ほかの全員がいて、初めて結末にたどり着けるのだ。

リンゴ「要するにみんなを守ってほしいんだよ、G-セルフの力で!」(24話)

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TV版では、26話に収める都合上か、最も重要なビーナス・グロゥブでの体験をアイーダだけにまとめてしまった点が残念だ。

2-4 ベルリ・ゼナムはアムロ・レイを超えられるか?

旅を終えた2人の成長が、端的に表れている場面がある。1つ目は、22~23話にかけて、ベルリとアイーダが親に会うシーンだ。

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ノレドは本当にいい子だね

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旅を終えた2人は、互いの親の愛を自覚し、独立する。自分たちの決意を表明し、同時に親からも離れる一連のシーンは、明確に二人の成長を表している。

父と決別し、仲間という共同体に帰結したアムロに対して、ベルリとアイーダは一人の人間として、育った共同体を離れる決意をするのだ。

もう1つの成長は、23話にある。こちらの成長は、自覚や決意といった認識レベルではなく、行動の変化として表れる。

アイーダはわかりやすく変化した。「じゃじゃ馬娘」と称されていた彼女は、今や立派な指揮官に成長した。メガファウナを無事に生存させ、最終決戦に終止符を打った彼女は、将来アメリアを率いる器になるのだろう。

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では、ベルリの成長はどこに見られるのか?

僕は、ロックパイを殺してしまい、寒気を感じるシーンが挙げられると思う。

ロックパイを殺してしまったシーンで、ベルリは異様な寒気に襲われる。その原因は、人を殺してしまった衝撃によるとも考えられるだろう。ただ、再起したいのが、23話のタイトルは「ニュータイプの音」である点だ。

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ベルリが人を殺したのはこれが初めてではない。過去には、カーヒル、デレンセン、(間接的だが)キア・ムベッキを戦闘中の不慮で殺している。

だが、ベルリがこのような寒気を感じたのはこれが初めてである。カーヒルには恋人アイーダがいて、デレンセンとは親しい間柄だったのだから、これらの時にも寒気を感じてもよかったはずだ(もちろん描かれなかっただけかもしれないが、それを言い出すと元も子もない)。

では、なぜ23話になって寒気を感じるようになったのか?

ベルリはロックパイを殺したとき、ロックパイを想うマッシュナーの「愛」を感じ取ったのではないだろうか?

前述したように、ニュータイプとは、非言語的コミュニケーションによって一瞬で互いを理解しあえる人間のことだ。当初は、誰もが理解しあえる理想の未来像として生まれた。そして、ニュータイプの能力の本質は、『ガンダム』の文脈を排して言えば、相手を想像できる力とも言える(注1)。

ベルリは、世界を自分の目で確かめ、直接触れ合うことで、相手の視点から物事を「想像する」力を手に入れたのだ

『Gレコ』で脱構築された「ニュータイプ」は、このようなベルリを表す比喩であり、だからこそ、23話のタイトルは、ニュータイプの「音」とされたのではないだろうか?

そして、ベルリの成長は、26話の最後のシーンに結びつく。

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宇宙を旅して、想像力の大切さに気付いたベルリは、今度は自分の足で「大地に立ち」、世界を知る旅に出る。「大地に立つ」とは、そのまま「想像力を手に入れる」と換言できるだろう。1話でアイーダに「想像しなさい」と叱られたベルリは、26話を経て、自分の足で「大地に立つ」のだ。

孤独な少年が、大人の身体をまとって社会に出たのち、疑似家族のなかで「父」や「母」に叱られ、迫りくる敵から世界の広さを知りながら、「ニュータイプ」へと進化し、仲間のもとに収束したのがアムロの物語であった。

一方で、世界を知らない少年が、仲間とともに宇宙を旅する中で、「他人のものさし」と「世界の真相」を知ったうえで、自分で自分の役割を決め、生まれ育った共同体から独立し、「大地に立つ」。これこそが、『Gのレコンギスタ』で語られた「ベルリの物語」だ。

「大地に立つ」。それは、新たな未来像であり、世界を生き抜く指針だ。

「ニュータイプ」と比べれば、この結論は、いささか地味かもしれない。

互いのエゴがぶつかる最終決戦を収めたところで、それぞれの陣営が互いを理解しあえたわけではない。むしろ、「馬鹿は死ぬまで治らない」とでも言うかのように、地位の高い人間は全員死に、スクラップ&ビルドが成される。その場しのぎの解決を迎えたに過ぎないだろう。

かつて、大人たちは理解できなかった。かつて、ニュータイプは戦争の道具にされた。それでも、これから地球を歩き出すベルリたちは想像する力を持っている。この作品は、「ニュータイプ」を取り巻く負の歴史から初めて「脱出」した作品なのだ。

これは小さな一歩かもしれない。『逆襲のシャア』の果てに「ニュータイプ」が希望ではなくなったように、いつかベルリの答えが現実から乖離してしまうかもしれない。けれど、すべてはこれからなのだ。

『Gレコ』という物語を通して、いよいよベルリたちは自分の足で「大地に立つ」。本当の未来は、これから地球を歩き出すベルリと、そして、僕たちにこそあるのだ。

歴史と驚異を認識したうえで前進するベルリの物語は、まさしく「地に足のついた」、僕たちの物語である。

(注1)ここまで応用することはガンダムの文脈ではできない。『機動戦士ガンダム』においては、相手を理解しあえる人間をニュータイプ定義したわけではない。ハマーンとカミーユのように、直接繋がりあっても解り合えない場合もある。したがって、これは「脱ガンダム」である『Gレコ』にしかできなかった展開だ。

おわりに 「アニメで描かれる戦争は、本当の戦争じゃない」

『Gレコ』でベルリが辿り着いた「解答」は、確かに戦場で見つけたものだ。だからと言ってその「解答」が、私たちと関係がないわけではない。

ここで僕は、「ここは戦場の後方にしか過ぎない」と伝えた『パトレイバー2』よろしく、日本人が持つ戦争観を問題にしているわけではない。

もちろん、『ガンダム』や『Gレコ』を見て、「戦争って悲しい」という感想を抱くことは間違っていない。

しかし、富野監督も良く用いる「アニメの効能」とは、それだけではないはずだ。アニメの戦争は、現実の戦争を模しているだけでない。同時に、現実世界の縮図を視覚的に美しく端的に描いたメタファーでもあるのだ。

アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』ほど極端ではないにしても、正常な思考を持つ道徳的な人間が、「誰かに流されるまま他人に危害を加える羽目になっていた」ことや、「使い捨ての駒として扱われる」ことは多くあるだろう。

そして、言うまでもなく、「誰かに流されるまま他人に危害を加える」行為は、現代法に基づけば罪であり、アーレントに言わせれば、「陳腐な悪」でしかない。

「彼(編注:アイヒマン)は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数か月にわたって警察で詰問に当たるユダヤ人と向き合って座り、(中略)出世しなかったのは自分のせいではないということを繰り返し繰り返し説明できたのである」(アーレント、1969、p.221)

現実が狂いだしている。その認識を持っている点で、『Gレコ』は『君の名は』や『天気の子』とも重なる。だが、狂った地獄のような現実に対して、『天気の子』が子供たちへの祈りであったのならば、『Gレコ』は(前編で述べたように)「君たちは生き延びることはできるのか?」と問うている。

次の世代が過去を学習したうえで、どう良い形で地球を使いこなしていく人類になりうるかっていう、「HOW TO」を見つけるようになってほしい。(『富野由悠季の世界』p.p.248-249)
劇場版の予告でベルリが一切アップにならないのは、僕たちこそ「ベルリ・ゼナム」だからだ。

設定と結論は十分に描かれている。これは『∀』のときもそうだった。『∀』の序盤と終盤の完成度は、『機動戦士ガンダム』シリーズで一番優れていると僕は思う。

だからあとは、真に『ガンダム』を「脱出」し、「大地に立つ」ためには、ベルリがその結論に至るまでの物語が描かれるだけだ。そのための5部作だと僕は考える。

今回僕が提言したことは、もちろん僕の持論でしかない。劇場版で描かれる結論は違うかもしれない。だが、『Gレコ』にファーストを超える可能性があることは確かだと思う。2作目は来年の2/24に公開される。ベルリの物語を、そして僕たちの未来を、僕は、僕の目で確かめにいきたい。

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