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【文字数:約1,400文字】
すこし前、フォローしている方が次のような記事を投稿していた。
記事に添えるタイトルについて書いており、関連して思い出した曲の紹介などをした最後、次の問いで締められていた。
noteに関してなら私はタイトルを先に考える。
それは「〇〇について」という具体的なイメージがあり、たとえるならマンガ作品において枠線を引くコマ割りの作業に近い。
枠線があることで描く場所も決まるわけだけど、始めは仮置きとして後からタイトルを変更する場合もある。ただ、記憶にある限りそれほど多くない。
たぶん「先にタイトルを考える」というのは、直筆の日記で同じようにしているのも無関係ではないと思う。
シャープペン書きなので後から変更することは可能でも、おおまかな「〇〇について」というイメージがある点はnoteの記事と同じだ。
直近のタイトルを書きだしてみると、「空白の中で」、「朝を越えれば」、「去年の今頃」、「筆先も乾かぬうちに」などがあった。
タイトルに沿った内容なのはB5の半ページくらいで、後は関連して思い出した事柄をひたすら書いて1日1枚を消費する。さすがに毎日、毎回ではないけれど。
その一方で創作の、とくに長編小説においては後からタイトルを考えることが多い。
視点を集中させる短編や詩であればタイトル先行の場合が多いけれど、長編は書いてみないと全体像が分からないので、「(仮)だれかのウソつき」などとしておき、しっくりくるものが浮かんだら変更する。
とはいえ、連載していく形の新聞小説などは先にタイトルを考えねばならないと、冒頭で紹介した方も触れていた。
以前の記事で小川 哲『地図と拳』について書いた。
ラジオ出演した筆者が新聞連載にあたり、先にタイトルを考えるのは大変だった、と話していたのが記憶に残っている。
あまりにも内容から乖離していたら変だし、かといって「これだ!」と決め打ちをしたら書いている途中の手枷足枷、つまり桎梏になってしまう。
公募でも入選したときから改題している作品は多いし、販売数にも直結するから吟味されるのは当然だ。
とくに近年はタイトルで内容を説明しないと、そもそも読まれない風潮があるらしく、
「どうでもいい前世から追ってきた婚約者から逃げるために再転生します」
とかの意味は分かるけど美しくないタイトルが目につく。
さすがに一般文芸などにこの流れは及んでいないけれど、動画に関しては配信者それぞれを区別するため、かなり独特の文法があるような印象を持つ。
文字に寄らない曲に関してもタイトルがなければ音の連なりに過ぎず、まんま「無題」としては味気ない。
ただ、本来はタイトルなどなくても作品は成立するはずで、分類や理解のために便宜上、そうしているに過ぎない。
なにより詩を書くとき、名前のない感情を言語化する初期の段階にあたっては、むしろタイトルは邪魔であることが多い。
それはタイトルによって方向や形、重さや強さなどが規定されてしまうからで、まさしく始めに書いた「枠線」を与えてしまうことになる。
人間は他者に何かを伝えるため、パッケージとしての形を与えなければいけない。
でも、それによって削ぎ落とされるもの、汲み取れないものがあることを忘れてはいけないと思う。
なかまに なりたそうに こちらをみている! なかまにしますか?