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私がラップを書くまでのMAP 2/2

【文字数:約2,000文字】

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 ここまで書いてきて、意図せずラップを書く土台が作られていたと推測できる。

 発表の場としてのSNSが存在したのに加えて、小説投稿サイトでの活動も大きな動機付けになった。

 何万、何十万におよぶ長編小説を書くのは数ヵ月かかり、内容を詰めるほどに進みは遅くなる。

 形に出来たときの達成感を言葉で表現するのは難しいけれど、海図のない航海を生き抜いて、新大陸を発見したような感動が近いかもしれない。

 完成したものが評価されるかを別にして、頭の中にしかなかったものを具現化する喜びは、すべての創作行為に共通しているように思う。

 とはいえ数ヵ月に渡って同じ作品に打ち込むのは、おもに精神面での負荷が大きく、だからこそ長編は挫折しやすい。

 そうならないために数千文字の短編で小さな達成感を得て、やる気を持続させたりする。

 同時進行でなくても長編、短編、長編という感じで緩急をつけるのも有効だ。1つの長編のみで何百万字に達する人もいるけれど、とても私にはマネできない。

 小さな達成感を得る選択肢の中で、文章というより詩や歌詞に近いラップが浮上したのは、過去に聴いていたのが関係しているだろう。

 ◇

 今から20年くらい前の曲で、KICK THE CAN CRUWの「イツナロウバ」というのが存在する。

 内容を簡単にまとめるなら、「夏を過ごす若者の心情」といったところだろうか。

 曲の最後で繰り返されるサビの前、とくに次の部分が好きだ。

肌は色をおとし

今年もオレを1人 残し

徐々に次第に弱った紫外線

まだ何も終わっちゃいないぜ

ワンサゲン 騒げ行くぜ朝から

朝まで 朝まで

 朝まで、という発音は英語の「a summer day」と近く、夏をテーマにした曲と合致しており、始めて聴いたときには鳥肌が立った覚えがある。

 曲名のイツナロウバも同様に、「It'sイッツ notナット overオーバー」のくだけた発音であり、「それは終わっていない」の意味だ。

 そこから自分でも書いてみるまでには至らなかったけれど、1つの言葉に複数の意味を持たせる技巧への驚きと憧れは、静かに自分の中で育っていたのかもしれない。

 ◇

 かくして、小説を書くために増やした語彙が苗床となり、ラップを書くに至るというわけだ。

 あまり一緒にされたくない人もいるだろうけれど、多くの単語を扱う点では詩や短歌とも共通している。

 心に浮かんだものを表現するのに、余計な手間をかけて分かりにくくするのが適切かと、わりといつも考える。

 それでも私はこだわりたい。

 百年あるいは千年など望むべくもなく、せいぜい1週間くらいしか記憶に残らないとしても、形を変えた1枚の写真として残したい。

 写真を撮るのは目の前の光景を残したいと思うからで、おおげさな言い方をすれば感動した証拠だ。

 かつて感情を失っていた時期があり、そのときは心の動きが苦痛ですらあった。

 それでも蛇口から出る水をそのまま飲むのではなく、冷やしたり温めたり、お茶やコーヒーを淹れるなどといった楽しみを探し始めた。

 心が死んだような気がしていたのに、まだ自分の中では変化を望む若芽が育ち、その成長を見届けたいと思うようになった。

 絶望を味わうことのない人生は幸運だし、すすんで自ら不幸に近づく必要もない。

 望んでいないのに起こる不幸を、神からの試練として捉えようとする向きがあるけれど、あまり私は賛同できない。

 一方で、人生が他者により委ねられたものだと考えることで、自分は頑張っている、悪くないと擁護するのには賛成だ。

 あまりにも肥大化した自尊心は癌に成り得るけれど、自らの内側から聴こえる声に耳を塞いでも意味がなく、むしろ外からの音が遮られてしまう。

 やがては目と口が悪くなり、耳は遠く、思慮は浅くなっていくにしても、こうして自覚する手段を持ち続けたい。

 ◇

 よく人生を白紙の地図になぞらえ、将来は自分次第なのだからと激励する流れがある。

 間違ってはいないと思うけれど、地図が役に立つのは現在地が分かっているからで、進む方角を間違えれば目的地には辿り着かない。

 現在のスマートフォンにはGPS機能があり、いつでもだれでも現在地を知ることができる。

 でもそれは端末の発する電波が頼りなので、バッテリーが切れるなどすれば地図上の自分は存在しなくなる。

 現実の自分が消えることはないにせよ、スマートフォンを持ち歩くのが当たり前になって、不安を覚えるという人も多い気がする。

 しかし人間には記憶という地図があり、合わせて写真や映像、音声なども再生できる。

 さらに目や耳を駆使すれば、おおまかな現在地を知ることが可能だ。

 ラップを書くことは現在の心を表現し、人生の地図上に自分を見つけ出す行為だと思う。

 それは詩や短歌といった創作全般に言えるけれど、過去に自らを見失った経験があるからこそ、これからも私は現在地を探し続けるのだろう。




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