見出し画像

全体の象徴としての音

缶詰の不良品を叩くことで聴き分ける「打検士」と呼ばれる職業があるらしい。昔一度テレビでその作業の映像を見たことがある。
ものすごい数の缶詰が並んでいる前で、それらを一つ一つ素早く叩き、検査している姿だった。不良品は音や手に伝わる振動などで分かるらしい。叩く音に、目ではわからない缶詰の状態が現れるというその作業がなんとなく記憶に引っかかっていた。

自分は子供のころから音が出る物が好きで、べつに楽器でなくても、いい音がしそうだと感じたものは、木切れでもはがれかけたコンクリートの舗装でも、かまわず叩いてその音を確かめたりしていた。
音は物の性質をダイレクトに伝えてくれるという感触が、その時から自分にはあったからだと今になっては思う。
打検士の姿が気になったのは、そんな自分の幼いころの感覚が、真剣な作業によって裏書されているような気がしたためかもしれない。

音は物の性質を、その全体から発された統一体として伝えてくれる。音はその発生源である物体のどの部分も無視することがない。
たとえば表から見れば何の問題もないギターについて、その裏板が割れているか否かを、音というものは伝えてしまう。その音を聞く人が気付くか気付かないかは別として、音はその情報を伝えている。それは、見えない裏側や触れることのできない内側などを取りこぼしたりしない。

音を捉える器官としての聴覚は、物体の色や匂い、感触や味を捉えることはできないが、それでも物体が発する情報を、少なくとも「音(振動)」という地平においてはその全体として捉えることができるのだと言えないだろうか。振動を伝えやすい物質がある一方で、振動を伝えにくい物質、吸収しやすい物質もある。しかしそのような物質でさえ、あまり響かないこもった音やかすかな音という消極的な「姿」によって、その物質の性質を伝えてくれる。

たとえば密教における「真言」が、真理の全体をその一語(一続きの音)によって体現するとされるように、音というものもそれが発せられる震源(振動体)の全体を象徴するものである。音の魅力というものの一端は、そのような「全体の象徴としての音」という点にあるのではないだろうか。

楽器は、音を発するものとして存在している。生み出される音は楽器の全体を、空気の振動という形で象徴する。
しかしこのことはなんとシビアで、なんと面白いのだろう。
どれほど些細な構造も、その楽器の音色へ参与し、取り残されることはない。もちろんそれぞれの構造の影響力は様々な強弱、明暗を持っている。ほとんど気にする必要のない構造的要素もあるだろう。しかしその影響力がゼロになることはない。
楽器の作り手は気にしようと思えば、あらゆる部分、そしてそれら部分の関係について思いめぐらすことができる。それはとんでもなく忍耐を要することではあるだろうけれど、一方でその奥深さにしびれる部分でもある。

さらに、楽器は機械ではなく人によって弾かれるものだ。その音色は、純粋な振動だけでなく、その外観や弾き心地、果ては香りや、人によって付される情報などとの関係によっても決まってくる。
ひとつの楽器からその全体の象徴として発せられる一つの音、一続きの音が、他の様々な要因(外観、触感、香り、情報、etc.)によって人が聞く音色として色付けされていく。

まったくどれだけ複雑なのだろう。
適当が好きな自分には、とてもその深みを追求する力量はないと感じてしまう。
まあ、少なくともそれを作ることに飽きることはないだろうことが救いではあるけれど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?