早瀬ギター工房 Rin Hayase

大分の田舎の工房にて、個人でアコースティックギターを中心に製作しています。 楽器や物作…

早瀬ギター工房 Rin Hayase

大分の田舎の工房にて、個人でアコースティックギターを中心に製作しています。 楽器や物作りなどに関して書いていけたらと思っています。

最近の記事

すべてが自分のせいであることの気楽さ

素材は、そして道具は、静かに、沈黙の内に製作者の前に置かれている。 たとえば木を削るとき、それは私に向かって声高に何かを主張してくることはない。 木を削りそこねるとき、それを曲げそこねて割ってしまうとき、その木に向かって非難する私のことばは、そのまま自分に跳ね返ってくることになる。 木は何も言わない。ただ、揺らぐことのない自らの個性を宿して、私に対して佇んでいる。 木をうまく扱えないことは、全て製作する者にその責任が帰せられる。 同じように道具もまた、製作者の前で、黙して

    • 試合と製作

      製作とは、たとえばスポーツの試合におけるような、相手(素材)と自分との駆け引きによって成り立つものだと思う。 一対一で向かい合うという構造がわかりやすいので、ここでは卓球やテニスのような競技における試合をイメージしながら考えてみる。 この場合、試合で選手が勝つために必要なことは、勝手気ままに自分の得意な球を打ち込むことではないだろう。ネットの向こうには同じように必死で自分を負かそうとする相手がいて、その相手を無視しては有効な球を打つことができない。 相手の裏をかくためには、

      • 用いる道具によって結果は変わるか

        むかし、物作りをしている知人が「結果が同じならどんな作り方しても同じだろう」ということを言っていた。 これは、機械を使うかあくまでも手道具にこだわるかというような会話の中で出てきた言葉だったのだけれど、彼からすれば手間と時間が省ける機械の方を肯定したいという思いがあったのだと思う。たとえばクラシックギターの製作家には未だに手道具にこだわる傾向が強い人も多く、どうも彼にはそれが腑に落ちないようだった。 私自身も楽器製作の過程で多くの機械を用いているし、機械を使うことに対して完

        • 灰汁という個性

          山あいに住んでいるので、春になると散歩がてら山菜を採りに行くことが楽しみになる。 わらびやタラの芽などは前から食べていたけれど、今年は今までハードルが高そうなイメージで敬遠していたゼンマイを初めて採ってみた。下処理をしてから茹でて乾燥させることに手間がかかるイメージだったけれど、やってみればそれほどでもない。ただ、カリカリに乾いたゼンマイは最初の頃のボリュームは影もなく、ほんのわすがだけになったその姿を見て、山菜の中でも格が高いことに合点がいった。 楽器を作っていると、その

        すべてが自分のせいであることの気楽さ

          もしかしたら、美しいのは削り屑のほうかもしれない

          木に向かいながら、思い描く形を目指してそれを刻んでいく。出来上がってくる形は作り手の意に沿ったものとして、それが正確である限り、確かに正しい形ではある。 けれどふと、まわりに落ちているくるくると細かに丸まった削り屑を見たとき思うのは、「もしかしたら今日自分が生み出したもので一番美しいのは、こちらの方じゃないのか」ということだ。 美しさは、意図の裏側に生まれるものだろうか。 木を削ることは、それを裏から見れば、削り屑を作り出すことだとも言える。 ある形に削り出そうとするのは

          もしかしたら、美しいのは削り屑のほうかもしれない

          素材を無視しないこと

          たとえば、木という素材を用いて鉄のスプーンの形を模倣しようとすることは、センスのないことだなと思う。(情けないけどやったことあるのでわかる..) 金属のスプーンの薄さや、すらりとした輪郭、細かな装飾や刻印などは、主に金属という素材が持つ展性という性質からくるものだろう。そのような性質を持たない木材という素材を用いて金属の物まねをしてみても、金属にかなうわけはない。たとえ金属のスプーンに見紛うほどのものができたとしても、それはおそらく変に薄っぺらくて実用に耐えない模造品に終わる

          素材を無視しないこと

          全体の象徴としての音

          缶詰の不良品を叩くことで聴き分ける「打検士」と呼ばれる職業があるらしい。昔一度テレビでその作業の映像を見たことがある。 ものすごい数の缶詰が並んでいる前で、それらを一つ一つ素早く叩き、検査している姿だった。不良品は音や手に伝わる振動などで分かるらしい。叩く音に、目ではわからない缶詰の状態が現れるというその作業がなんとなく記憶に引っかかっていた。 自分は子供のころから音が出る物が好きで、べつに楽器でなくても、いい音がしそうだと感じたものは、木切れでもはがれかけたコンクリートの

          全体の象徴としての音

          ギターは生き物の死体でできている

          もちろん今日では金属や樹脂、塗料などの人工の素材がギターに使用されることは普通である。 けれど「スーホの白い馬」に出てくる馬頭琴のように、それら人工素材が現れる以前のギターはさまざまの自然由来、いやむしろ生物由来の素材を用いて制作されてきたのであり、現在でもギターの大部分はそのような「生き物の死体」によって構成されていると言えるだろう。 たとえば骨や象牙がナット、サドルに。 貝殻は装飾に。 皮や筋は接着剤の膠として。 弦も元々は腸(ガット)だし、カイガラムシの分泌物はセラック

          ギターは生き物の死体でできている

          外観と実用について

          楽器の外観(見た目)に割く労力楽器を作る際、その制作過程における労力は、どのような目的に対して注がれているか。 多くの人は、それは当然「音を奏でる道具を作りだす」という目的のために割かれているのだろうと、そう思うかもしれない。 道具としての楽器における目的とはつまり、実用の道具としての楽器に求められる要素−−音色、弾きやすさ、堅牢さ等である。 けれど、工房での修行時代、そして現在における自身の楽器製作のやり方を通じて得た私自身の実感はそれとは少し異なっている。 私自身の楽器制

          外観と実用について