毒親と暮らしてたら鬱になってODしてました。
「20年」という人生は短いようで、とてつもなく長かったように感じる。
わたしは2000年の5月にこの世に生まれた。
病院でいちばんのべっぴんさんだったらしい。今ではその面影は残念ながら残っていない。
親から名前を授かり、両親は共働きだったため、祖父母に育てられた。
わたしの幼き頃の思い出には、いつも祖父母がいる。
逆に両親はいない。
小学校のころは優秀そのものだった。テストは全て100点。素行も悪くない。
しかし、母親がうつ病になった。原因は姑との関係だった。
小学校3年生の時、わたしは祖父母から引き離され、両親と二つ下の妹と暮らすようになった。
父は言った。
「おばあちゃんの話は家ではしちゃダメ。おばあちゃん家に遊びに行ってもいいけど、それは言っちゃダメ」
母は言った。
「もう向こうのおうちに行っちゃダメだよ」
それから母はおかしくなった。
毎日寝たきり。勉強に関しては100点を取ってこないと「なんで100点じゃないの?」と怒られる。出来の悪かった妹は毎日号泣しながら、勉強させられた。
家の空気は常に悪かった。
中学生になった。
私と同じ小学校から進学したのは1人だけで、ほぼ見知らぬ人達の中での生活だった。
中学に上がってから、母は一層厳しくなった。
夜は夜中の2時まで勉強。朝は5時に起きて勉強した。それでも毎日母にもっと勉強しろと怒られた。
わたしはなんのために勉強しているのかわからなかった。
わたしはただ母の機嫌をとるために勉強していた。
でも母は毎日のように私に「どうして勉強しているの?」と聞いてくる。
私は死んだ心で「自分のため」と機械的に繰り返した。
死んだように勉強していたおかげで頭は良かった。そのおかげで県で1番の進学校に進学した。
高校生になった私は、勉強しなくなった。
母の病状は私の進学と共に落ち着いて、勉強しろと言わなくなったから。
それと同時に今まで勉強しかして来なかった私はインターネットにどっぷり浸かった。
学校は憂鬱だったけど、親にも怒られなくなって、それはそれで幸せだった。
やっと生きてるって感じられたから。
でも高校生2年生になったある日から、わたしは学校を休みがちになった。
理由は勉強についていけないから。
授業でさされることも多かったため、行きたくなくなった。
親はあまりにも私が休むので、無理やりでも学校に行かせるようになった。
そういう時、ほとんど保健室で過ごした。
また、親が家を出てからおばあちゃん家に行って、学校に行ったフリをすることもあった。
無断欠席、保健室登校を繰り返した。
そんなある時、親に精神科を受診することを勧められた。なんとなく結果は察していた。
「鬱ですね」
やっぱりそうですよね、と笑うしかなかった。
わたしを苦しめていた親と同じ病気。
泣いた。苦しくて泣いた。
なんとか3年生に進級したものの、また無断欠席と保健室登校を繰り返し、これ以上休むと単位が取れなくなるところまで来た。
その頃わたしは何をしていたかと言うと、家でのストレスと学校のストレスを発散するためにインターネットで知り合った男たちと身を重ねる日々を送っていた。
毎日毎日、1日2人ぐらいの男の人と会ってホテルに行った。それが唯一のストレス発散方法だった。
親には塾に行くと言っていた。
しかしその嘘もバレて、わたしは徹底的に監視されるようになった。
どこに行くのにも親同伴。学校も塾もコンビニも散歩も全部。
親といることがストレスでしかない私は、どんどんどんどん壊れていった。
気づいたら、自分の口からは嘘しか出ないようになった。
「今日の学校はどうだったの」
「ちゃんと授業受けたよ(保健室にいたよ)」
「体調はどうなの」
「大丈夫だよ(大丈夫じゃないよ)」
次第に自殺を考え始めた。もう生きる意味は無い。死んだ方がマシだ。楽になりたい。
そんなある日、妊娠が発覚した。
相手はもちろん誰なのかわからない。
親に怒られた。
気持ち悪くて何も食べれなかった。
毎日からっぽの胃から何かを吐いた。
ここにある命をわたしは殺すんだと思った。
ごめんね、ごめんね。
中絶した。
わたしはODをした。
病院に行った時、先生に言った。
「先生、このままじゃ私死んじゃう。死にたくないよ。先生、入院させて」
わたしは精神科病棟に入ることになった。
親と離れて生活出来ることに喜んだ。
最初の2週間はずっと寝たきりだった。
食事の時だけ起きて、たまにお風呂に入って、それ以外はほとんど寝て過ごした。
それからはスマホを使えるようになって、友達とかと連絡を取りつつ、通信の高校に編入して、たまに授業を受けに学校に行った。
学校の先生はみんな優しくて楽しかった。
塾の先生にも事情を話して、普通の生徒とは少し早めの時間から授業をしてもらった。
親と離れて、私は健康になっていった。
1月半ば、退院した。
その後、大学にも無事合格し、都会での一人暮らしが始まった。
最初の方はきちんと大学にも行って、バイトで塾講師もしていた。我ながら頑張っていたと思う。
でも秋からは学校にはほとんど行かなくなり、バイトだけなんとか行く生活をしていた。
でも塾講師のバイトだけじゃ、生活費は満足に稼げない。
12月、わたしは風俗でも働き始めた。
お店のスタッフ、お客さんはいい人ばかりだった。
1月、声が出なくなった。
いくつかの病院にかかったが、「声が出ないほどの病状ではない」と診断された。
塾も休みがちになった。
バイトができないことで、とても焦っていた。
ある日塾の上司から
「今度休んだ時はそれ相応の対応をする」
と言われた。
わたしはパニックになった。
好きで休んでるんじゃない。声が出なくて、うつ病で、つらくて休んでるのに、なんで。なんで。わからない。どうして。どうしたら。
わたしはどうしたらいいか分からなくなってしまった。
そうだ、死ぬしかない。こういう時こそ死ぬんだ。そしてあいつに復讐してやる。
わたしはまたODをした。
今度は緊急搬送された。
即入院させられた。
4月、退院した。
退院した今も、パニックになりかけることはある。でも多分ODすることは無い。
それは誹謗中傷に近い。顔も知らない奴らになにか文句を言われたって、わたしはそいつらに迷惑なんかかけてないし、そいつらだって迷惑を被ってはいないんだ。
いまは実家にいる。
親との関係は以前に比べれば良好。わたしのプライベートを覗いてくることもなくなった。
母はわたしが中学生のころから通院していなかったが、最近また通院し始めた(私がした方がいいと言ったため)。
多分私よりも苦しい20年を生きてきた人もいるだろうし、そうじゃない人もいると思う。
わたしは傷を舐め合いたい訳じゃなくて、ここで自分でしっかり縫って、前に進みたい。
まだたった20年しか生きてないんだから。
苦しい人に死ぬなとは言わない。
でも嫌いな奴に死ねとも言わない。
みんな違ってみんないい
金子みすゞの言葉が身に染みる。
生きるってきっとこういう事だ。
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