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【ショートショート】Orléans




「あたし、あんたに会うために生まれてきたの」

今日も一ミリも思ってもないリップサービスで唇を見事に染め上げる。ずっと実家にあった翡翠が嵌め込まれた見事な造形。凛と鈴の音がなんとなく聞こえてきそうな涼しげな祖母の形見のコンパクトを除くと、少女は少女自身じゃない何かに変身する。心までも化粧をして、夜から始まる一日へ溶けていく。今日もどうでもいい客からいらない思い出をもらい、口移しで貰った愛を呟く。

銀座四丁目午後五時。今日は少し早く家を出る。家に待つのは金魚鉢に入った一匹の寂しい子。私が生死を握っているこの子は、まるで女学生の時の淡い支配欲を満たしてくれた。移り気なんて知らなかったあの頃から時間が幾日も過ぎゆくと、大切なものをどこかへ忘れてしまった亡霊のような私は光を知らないかのような瞳で銀座を歩いていく。名前だけは少し好きなクロネコってお店は、顔は綺麗だけれども心が荒んでいる人間の巣窟だった。
素敵な口から詩的な愚痴。気分の悪くなるぐらい香る香水に浸水し、お客たちは綺麗な花に心酔する。店の外で流れる流行歌は未来を希望を歌い、それを聞きながらまた絶望する。

「ねぇ、これっきりにしないで」

カビ臭いカフェー。この店の中だけではマドンナになれる。お金は裏切らなかった。小さな頃から何一つ不自由なく暮らしていた私は、早く私に失望を頂戴、この場所から掬って、お願い。空気がないと生きられないのよ。本物の愛を頂戴。そう嘆きながらも、辞めることのできないこの仕事を続けるしかなかった。優しさを忘れてしまった乙女の対人関係はいつも劣悪だった。人は自分を愛せないと他人も愛せない。それを証明するかのような墜ちようだった。
あの閉鎖的な女学校を出て、何もかもこれから自由になりうまく行くのよと胸を張って家を飛び出した。あの頃は良かった。学園へ溶け込めば皆が笑顔で私を向かい入れてくれる。まるで天国のような場所だったことを今更知る。一人時間旅行に浸っても何も帰ってこない。過去の栄光に身を寄せることほど寒いことはないと思う。そして、あの女学校を出てから何人もの人間に騙されたこの外の世界。私も人を騙し生きている。人は所詮ステンドグラスのような愛の色。一生交わることのない鉛で釘られて溶け合うこともない虚しいもの。お客の横で話を聞くふりをしながら家で待つ金魚のことを考えた。救えぬ掬えぬ、金魚のお姫様のような私だった。
この地獄の最終回はいつになるのだろう。お客は毎日同じ話を繰り返し、適当な相槌をざっと九つぐらい決めておいて、決まった時間に帰り寝る。店では私は白河夜船の名人を裏であだ名がついているぐらいに上手にお客を操った。

別に本物の好きを追いかけているから、こんな仕事をしているわけではなかった。化粧も元々そんなに好きでもないし、女学生の時はウエイトレスのような上級生を嘲笑していたし、いつまでも美しいままこのままの世界がずっと続くと信じていたから。縁のないと思っていた夜会巻きでさえもこんなに上手にできるようになってしまうなんて。
切っても落ちれぬ椿のお姫様のような私だった。

いつかのこと、若い男が私に近付いてきた。共通の話もあったしいいとも思ったけれど彼はあまりにも隠し事が多く、しかもそれをこれが自分と正当化し考え方もかなり利己的だった。自分の生活を疎かにしてまでも感情に飲まれ込んでしまう人だった。まるで歌劇のような立ち振る舞いに、口から溢れ出すのは詩集のような綺麗な言葉だったけれど私の胸の底には全く入ってこなかった。少女画報で読んだ恋物語りの方が血肉の通った言葉に感じた。彼が話すたびに感じ取ることができない愛の言葉を優雅に交わし、煙草を吸わないのに無駄に集めているマッチ箱の絵を眺めてはどうしたら穏便に離れてくれるかを考える毎日だった。
いつしか私はお金を貰わないと、ダメになってしまったのだろうかなど考えるだけ心が迷宮化することをずっと考えていた。

「四六時中、君の香りが忘れられなくてどうしても会いたいんだ」
「君がほしい、味方でいてほしい」
「僕のこと、きっと受け入れてくれるよね」
「僕のことしか考えられなくしたい」

銀座、夜に香る珈琲。カウンターにある葡萄のランプはいつも可愛く大きな房をたくさんつけて。お世辞にも綺麗とは言えない文字の手紙を光のない瞳で読みこなしていく。誰も連れてきたことのないお気に入りの純喫茶で心の洗濯をしていた私はふと外を見ると、たまたま目に入った赤い靴の少女を見るのであった。覚えてる、忘れもしない。私がいちばん輝いていた頃を戸棚奥から取り出して久しぶりに聞いたレコードのように心の中に記憶の洪水を起こさせる。私は今すぐにでも追いかけて、声を掛け懐かしんで微笑み合いたかった。心の中に花が咲き乱れるようにあなたの優しさを感じたかった。とても整えられていた綺麗な赤い靴でステップを踏むように街を歩いていく少女をただ眺めることしかできない私は二人で昔、心から言い合った言葉を思い出す。

「お姉様の幸せをいつまでも願っています。どんな道を歩んでも」
「私の大切な妹、いつまでも私の妹でいてね。裏切らないでねお願いよ」

私は、貰った手紙に目をやった。

「私も、同類ってことね」

綺麗な木目のカウンターに大粒の涙を流した。今更戻れないのよ、そう呟くと店主が私の好きな紅茶を一杯サービスしてくれた。


【今回の用語】
ウエイトレス=けばい人(学校にそれで来る人、女学校なんかではこんなふうに言われてたそうです。)
カフェ・クロネコ=銀座を風靡した有名なカフェー(カフェーについては前回の投稿にあります。)。店内も華やかだったようで、一度見てみたかった・・・
白河夜船(しらかわよふね)=知ったかぶりをすること。京都の白河のことを聞かれた人が地名と知らずに川の名前と勘違いして、夜舟で通ったから知らないと答えて京都へ出掛けていたという嘘がバレてしまったというものから来ていることわざだそうです。

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