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【歴史は乗り越えるべきものである】『ルックオブサイレンスンス』からBLM運動をみる。

つい先日、ジョシュアオッペンハイマー監督のドキュメンタリー映画『アクトオブキリング』、『ルックオブサイレンス』を見た。

両作品はともにインドネシアで1965年に起こった「9月30日事件」と呼ばれるクーデター未遂事件の渦中で起こった民間人の虐殺事件を題材にしている。その点には変わりないものの、『アクトオブキリング』は加害者視点から描かれており、『ルックオブサイレンス』は逆に被害者視点から描かれているという点で見る者に全く異なる印象を与える。

『アクトオブキリング』が2012年、その姉妹編『ルックオブサイレンス』が2014年の作品なので特に新しい映画ではない。
長い間見たいと思いつつ随分と時間が経ってしまったが、むしろこのタイミングで良かったのかも知れない。
特にそう思わされたのは『ルックオブサイレンス』を見てからだ。

この作品は「歴史を如何に乗り越えるべきか」というテーマを持っており、それは恐らくありとあらゆる国と地域が抱える問題であると同時に、現在世界的に最も話題になっているニュース素材と直結していると言って良いだろう。

9月30日事件とは?

Wikipediaによると、この事件はスカルノ政権下で起こった国軍によるクーデターと、クーデター失敗後に事件の首謀者とされた共産党勢力の掃討作戦の両方を指しているという。
この事件でスカルノ大統領は失脚し、掃討作戦を指揮した陸軍少将のスハルトは第二代大統領になった。そしてこのスハルトによる徹底した弾圧によって、アジアで最も古く、近代インドネシア政治史に大きな影響を与えたインドネシア共産党は消滅し、現在においてもその活動は非合法とされている。
また31年に渡って大統領職に就いたスハルトの失脚後もこの事件の詳細は明らかにされておらず、裏ではCIAが反共キャンペーンを支援したと言われている。確かに、この事件は1955年から70年まで続いたベトナム戦争と同時期に起こったものであり、「ドミノ理論」の理屈において行われた工作として考えると非常に分かり易い。

しかしこの映画で焦点が当てられているのはそのような世界政治の一局面としてのインドネシアではなく、そのような展開を利用して行われた無差別的な民間人の虐殺である。

『アクトオブキリング』と『ルックオブサイレンス』


『アクトオブキリング』は虐殺事件を起こした加害者が当時の虐殺劇を文字通り劇として演じるという構成で、最終的にはそこでボス的な役割の男の罪悪感を炙り出すことに成功している。
画期的で巧みな作品には違いないし、そのような虐殺事件を起こした当事者達が要職に就くなどして地域の重要人物として豊かに暮らしているという事実には驚く他ない。

しかし今回特に問題にしたいのは被害者視点で描かれている『ルックオブサイレンス』の方だ。

この作品が『アクトオブキリング』と異なる点の一つは、『アクト〜』では映画としての終わりと共に事件が既に終わったものであるという印象を与えるのに対し、『ルックオブサイレンス』ではこの虐殺事件が社会的に精算されておらず、事件への思いから解放されぬままに被害者家族と加害者が同じ地域で暮らしているという現実を目の当たりにすることで被害者家族の悪夢が未だに続いているという現実を目の当たりにする作りになっているという点だ。

『ルックオブサイレンス』の主人公はアディという名の40代の男性で、彼は歳の離れた兄を殺された被害者家族として加害者達にインタビューをしている。
そこで印象的なのは、アディが自分が被害者の弟であることを告げた時の加害者達の言葉だ。

彼ら加害者達が皆一様に「知らなかった」「騙されていた」、或いは「なぜ今になって過去のことを掘り返そうとする?」と言い放つ。
まるでそこにいるアディが被害者家族であることを忘れたかのように自分や自分の父親の責任から逃れようとする。


BLM運動について

『ルックオブサイレンス』で描かれたことは、アメリカで起きた警察官によるジョージフロイド殺害事件に端を発するブラックライブズマター運動に直接的に繋がっている(以下の内容は「なぜ今になって過去のことを掘り返そうとする?」という『ルックオブ〜』の加害者たちの言葉を思い出しながら読んで欲しい)。

例えばそれはイギリスで引き倒されたエドワードコルストンの銅像にもみられる。エドワードコルストンは、19世期の篤志家であると同時に奴隷商人であった。

次の記事はヨーロッパ各地での「銅像」に関するもので、この中にはチャーチルの銅像についても説明されている。
彼はイギリスを救った英雄であると同時に差別主義者であった。

このような銅像の是非は突然起こったのではない。
以下は2017年の記事。
南北戦争における南部連合の英雄の銅像が撤去されている。

リー将軍の銅像の撤去の必要性を「不寛容や憎悪のメッセージを推進する人たちが、リー将軍の思い出を間違って利用する」と訴えたのはリー将軍の玄孫だったという。

アメリカ第3代大統領となったトマスジェファーソンの像も引き倒された。
トマスジェファーソンは建国の英雄であると同時に大規模な奴隷所有者で、奴隷に複数の私生児を産ませている(なお、ジェファーソンのWikipediaには、ネイティブアメリカンの強制移住、絶滅計画の記述がある)。

BLM運動の流れの中で起きたこれらの行動についてどう思うだろうか?

これらの銅像引き倒し行為に対し、「過去のことを現在の価値観で断罪するのは間違っている」という人がいる。

過去に遡ってジェファーソンを罰する事はできない。
では、権利を剥奪されたかつての奴隷の立場を思いやる必要はないのか?
彼らの子孫が差別構造の中に閉じ込められたままで生きていることを思いやる必要はないのか?

アフリカ系の人々は奴隷制を推進した人々が「アメリカの英雄」として今なお起立していることをどう思うだろうか?

「歴史を乗り越える」ことは出来るか?

『ルックオブサイレンス』に立ち戻ってみよう。
ここで僕がまず衝撃を受けたのは、被害者の家族が加害者本人達と隣り合わせで暮らしているということだ。
我が子を殺されたアディの母親は、毎日のように加害者達とすれ違うという。しかしお互いに言葉を交わすことはない。

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アディの兄が殺された後も母親は彼の食事を用意し続けたそうだ。
程なくしてアディが産まれ、彼女に生き甲斐が出来た。
年老いた母は言う。
「お前はあの子の生まれ変わりだよ」
アディは、母親に加害者達をどう思っているか聞いてみた。
母親は「神様が放っておくはずがない。あの世で自分たちが殺した人たちに復讐されるよ」と言うしかなかった。

加害者達に会うたびに、すれ違う度にそう思って復讐心を満足させているのかも知れない。

しかし、『アクトオブキリング』『ルックオブサイレンス』の両映画はインドネシアに変化をもたらしたようだ。

リンクばかりになってしまうが、次の記事は2015年に早稲田大学で開かれたパネルディスカッションについて紹介するものだ。
この時、監督のジョシュアオッペンハイマー、そしてアディが招かれている。

この記事にはオッペンハイマー監督が陸軍から脅迫を受けたことを告白し、アディは「インドネシアでも3000回に及ぶ上映会が開かれ、事件を知らない多くの若者が会場に訪れてくれたんです。その姿に胸が熱くなりました」と近況を伝え、加害者たちとの直接対決について「すごく怖かったです。でもそれ以上に沈黙を守り続けることを終わりにしたかった」と回答している。

「なぜ今になって過去のことを掘り返そうとする?」

この言葉は映画の中で加害者側の理屈として使われた。
虐殺者達がその虐殺によって地位と名誉と金を持ち、被害者家族は何十年経っても忘れることが出来ない。そればかりか、虐殺者達とそれを擁護する人間が政治を取り仕切っている。

以下のリンクではオッペンハイマー監督がこの映画 がインドネシア社会に与えた影響について次のように語っている。
「主流メディアが1965年に起きた事や、殺りく者をそれまではヒーロー扱いしていたが、虐殺を虐殺であったと言えるようになった」

本来民主主義とはこういうものだろう。
正しい情報の下に一般大衆が諸々のことを判断する。
勿論、これで全てが解決されたとは思わない。

アディらは協力者の助けを借りて居住地を変えなければならなかったし、オッペンハイマー監督は『アクトオブキリング』で軍から脅迫を受けるようになり、上映以降はインドネシアには入国できないでいる(『ルックオブ〜』ではオンラインでインタビューに加わっているようだ)。

しかしそれでも、勇気と知恵をもって彼らは歴史を乗り越えたのだと思う。少なくとも一段上ったと言えるだろう。

アメリカでアフリカ系として生きるとはどのようなことか?

アフリカ系の医療従事者であったブレオナテイラーは夜間に予告なく彼女の自宅に侵入した3人の警官によって少なくとも8発の縦断を打ち込まれて死亡した。
麻薬捜査との名目でテイラーの自宅に侵入した警官を彼女の恋人が不審者と思い発砲、警官が負傷し、応戦したためというが、それにしても余りにも不公平ではないか?
ちなみに、麻薬犯罪の捜査対象者はこの時既に身柄を拘束されていたとのこと。

次はジョギング中に射殺されたアフリカ系男性アマードアベリーの例だ。彼はただジョギングをしているだけだったにも関わらず射殺された。
犯人の白人親子は近所で発生した強盗事件の犯人と思ったと主張している。

反論する向きがあるとしたら、「アフリカ系の日頃の行いが悪いから巻き込まれるのだ」とでも言うだろうか?
次はパトリックハーランの記事だ。

ここには、2015年の1年間だけで警察官によって丸腰のアフリカ系が100人以上殺されたこと、そしてその100件以上の殺人で有罪になったものがたったの5人であること、その他麻薬関連の冤罪、殺人事件の冤罪など、アメリカにおいてアフリカ系が白人種に比べてどれ程不利な立場に置かれているかについてキリが無い程に多く例示されている(また、この記事で描写されているジョージフロイド氏が殺害された経緯もとんでもないものだ)。

次の記事には、「アメリカ人の13%(黒人)がアメリカで起きる殺人事件の50%を実行しています」という類の偏見をデータによって否定する記事だ。
黒人も白人も、殺人事件を実行する割合は殆ど変わらない。

さて、これまでは事件報道や統計を用いた客観的な内容を紹介した。
ここで「生の声」を聞いてみよう。
ウィリアムズ友美さんはアフリカ系の夫ウィルさんを通して「アメリカで黒人として生きていくこと」を擬似体験した。

ウィルさんは、どこに行くにも身なりを整えからでないと出掛けないという。
髪を整え、髭を剃り、着替えをする。
近所のコンビニに出る時もそうだ。
それはアフリカ系である彼が考える「僕は危険人物ではありません!」というサインなのだという。

このウィルさんのような例もあると共に、武装したり強い態度を取ることで危険を避けようとする者もいるだろう。

個人的な経験だが、ボクサーとして活動していた頃にラスベガスのジムでトレーニングしていた。
もう25年も前の話だ。
ウィルさんの話を読んで、ジムで、ウィルさんのようにいつも綺麗に身なりを整えて完璧な振る舞いをする大柄なアフリカ系の男性ボクサーがいたことを思い出した。
いつもアイロンの掛かった白シャツにスラックスで銀縁のメガネを掛け、とてもスマートな印象を与える男だった。
もしかしたら姿や振る舞いだけではなく、ウィルさんと同様の考えのもとにそれを実行していたのかも知れない。

また同じジムには、やはりアフリカ系で、とても賑やかで明るい人だったが、いつもジムを後にする際にホルスターにガンをセットしてそれをジャンパーで隠すようにしてから帰宅するトレーナーがいた。

当時のラスベガスは全米で最も安全と言われていたが、それでも安心出来なかったのだろう。

アメリカでアフリカ系として生きる、その為に何が必要なのだろうか?
身嗜みを整えて「僕は危険人物ではありませんよ!」という態度と雰囲気を作るか、それとも身を守る為に武器を持つか。

アフリカ系の人々は、ジョギングをしているだけで射殺され、寝ているだけで蜂の巣にされ、偽札を使ったという疑いを持たれただけで異常な拘束のあと窒息死させられるリスクを偏見によって背負って生きている。
身なりを整えるのが正しいのか、武器を持つのが正しいのか、そのどちらのやり方が正しいのかは分からない。
というよりも、個人のレベルではリスクを減らすことはできたとしても、微々たるもののようにさえ思う。

これは誰もが知る歴史だが、ヨーロッパからの入植者達は元々はネイティブアメリカンの土地を奪い取り、ネイティブアメリカンの人々が奴隷に向かないと分かるとアフリカ人を買い入れて奴隷として使役させた。

彼らに償いをしないのなら、アメリカという国は歴史に復讐されて当然だと思う。アメリカは移民の国というアインディティーを喪失し、自由の国、チャンスの国、という価値と輝きを失って没落するだろう。

「過去のことを現在の価値観で断罪するのは間違っている」のか?

今回のデモで行われた銅像引き倒しなどに否定的な意味合いで、一部の人によって「過去のことを現在の価値観で断罪するのは間違っている」という類の言葉が使われた。

一見良識的に見える言葉だが、この言葉は正しいのだろうか?
誤った歴史と社会を正す時、歴史を乗り越える時、この言葉は正しいと言えるだろうか?

『ルックオブサイレンスンス』で投げかけられた言葉を再掲したい。

「なぜ今になって過去のことを掘り返そうとする?」

これは被害者の立場を捉えていない加害者の言葉だ。
彼らの世界では加害者たちは罰せられないばかりか、地位も金もある有力者として暮らしており、被害者(一度捕まったものの逃げ延びた住民も出演している)、そして被害者家族が今も身悶えするような苦しみの中で生きていた。

この言葉は実際そこに問題があることを知りつつも、あたかも問題がないかのように振る舞い、それを告発する者に「事を荒げるな」と諭す厚顔無恥な加害者の言葉だ。
この言葉は「過去のことを現在の価値観で断罪するのは間違っている」という言葉とどれ程違っているだろうか?

奴隷として権利を剥奪されてきたアフリカ系の人々が、その不利益を現代にまで引きずっているにも関わらず、それを無視するのは厚顔無恥な加害者擁護の発想だ。

アディの母親は自分の息子を殺した者達と同じ街に日常的にすれ違いながら暮らしていた。

アフリカ系の人々は自身が差別的な環境に身を置きながら、自分たちと同じ属性の者達を奴隷としてきた人々を英雄とする国で暮らしている。

歴史の時々において示された価値観はその未来において常に更新され続けなければならない。

我々は望む望まないに関わらずこれからも未来への道を行く。
その道のりがあまりにも遠回りにならないように、アフリカ系の人々だけではなく、より多くの人が自由と向き合えるようになることを願っている。

そしてもう一つ、『アクトオブキリング』『ルックオブサイレンス』を成し遂げたオッペンハイマー監督、アディの勇気と仕事ぶりが、今後も受け継がれ、支持されることを願っている。(了)










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