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『赤いハイヒール』

「ニコル教授、本当に大丈夫ですか?」
「心配するな、ミッシェル」
秘書のミッシェルは不安げにカーネルサンダースにそっくりのニコル教授を見つめる。
 地質学者の権威であるH大学のニコル教授は、地球電磁気・地球惑星圏学会に呼ばれ、チバニアンに関しての論文について講演をしに東京国際フォーラムに来ていた。77万年前の地磁気逆転現象が実際にあったのか、なかったのか、研究者だけではなく一般の人々まで多くの関心を集め、500人を超える観客はドキドキしながら彼が出てくるのを待っていた。
「この国では、前回のようにな事が起こっても上手くおさまらないかもしれません」
「大丈夫だ、これさえあれば」
ニコル教授は両手で高々と黒ぶちのサングラスを掲げながら言った。

 実は今年で75歳になるニコル教授には、ある困った癖があった。赤いハイヒールの女性を見ると、どうしようもなくムラムラし抱きついてしまうのだ。精神科にも通ったが、幼い頃に出て行った母親が赤いハイヒールを履いていたからなのか、妻が別れ際に赤いハイヒールをニコル教授に投げつけたからなのか、理由はよくわからなかった。70歳の声を聞いた辺りからその癖は始まった。

普段は僻地に行って地質を調べるか、研究室に籠りっきりになるかの生活だった。面倒な問題や悩みを全て忘れ、研究に没頭しているときがニコル教授にとって最も幸せな時間だった。だが、70歳でルーブル地質学賞をとり名誉教授になってから、あちこちに講演で呼ばれることが増えていった。

 事件が起きたのは、3年前のニューヨーク講演だった。観客は50名ほどで関係者ばかりだったから、ニコル教授が赤いハイヒールの女性に抱きついたことは内内の話で済んだ。抱きつかれた女性もニコル教授の大ファンだったので、挨拶のハグと勘違いし事無く終わった。

 だが、今回の講演は観客の数が多すぎる。しかも日本では挨拶代わりにハグという習慣はない。ニコル教授は焦った。もし、また事件を起こせば、ここまで築き上げた功績は一瞬にして消え学会からも追い出されるかもしれない。ハリウッドでセクハラ問題が表沙汰になってから、学会の間でもそういったことに関しては異常に敏感になっていた。

日本に行く日が近づき不安を抱えながらの日々。食欲は減退し、大好きなフライドチキンものどを通らなくなっていた。講演を断ろうかと思い始めたある日、バックストリートを車で走っている最中にある看板に目が止まった。

『あなたの悩みを解決できるグッズ売ります』

 ジプシー女とドクロの絵が描かれた看板は、いかにも怪しげだった。くすんだガラス窓の向こうには所狭しと物が積まれていた。半信半疑でその店に入ってみると、意外にも店主は自分と同じ歳ぐらいの人のよさそうな老人だった。
「なにか、お探しですかね? 私は店番で、店主はいま留守なもんですから御案内はできないんですが……」
 古い籐椅子に腰かけ、読んでいた新聞から目を離してその老人は言った。
「あ、いえ、面白そうなお店なんで、ちょっと寄ってみたんです。ちょっと見せてもらっていいですか?」
 店番の老人は、どうぞどうぞと言いながら再び新聞に目を落とす。
ニコル教授はゆっくりと店の中を見て回った。天井からぶら下げられた釣り棚にはこぼれんばかりにカラフルな布やアクセサリーが乗っていた。大きな壺や見たことがない動物の剥製もたくさん置いてある。太ったお腹がぶつからないよう慎重に歩いて店の奥に行くと、腰ほどの高さの小さな棚のなかに黒ぶちのサングラスが一つ置かれていた。そのサングラスの脇にはぼやけた文字で
「特殊サングラス…赤い色が見えなくなります」
 と書かれてあった。
 これだ! ニコル教授は思わずそのサングラスを手に取りかけてみる。だが何も風景は変わらなかった。緑のタペストリーも、金色の指輪もサングラスを外したときと同じ色に見えた。そばにあった赤い手品スティックを試しに見てみる。驚くことに、赤い色だけは青い色に変色して見えた。ニコル教授は喜び勇んでサングラスをカウンターに持っていくと店番の老人が、
「申し訳ありませんが、使用説明書どこにあるか店主が返って来ないとわからないんですよ」
 と言ったが、重い不安から解放されたニコル教授は久しぶりの満面笑顔でけっこうけっこうと手のひらをヒラヒラ店主に向け、サングラスを買って帰った。

 大学の研究室に戻るとニコル教授は秘書に頼んで、赤いものを持ってこさせた。赤いリンゴ、赤い絨毯、赤いパンツ、赤いジャケット、どれもサングラスをかけると青く変色して見えた。
「素晴らしい、これは画期的なサングラスだ!」

 果たして、その日はやってきた。
日本に向かう便の中、今年の日本の流行色は赤らしいという情報がニュースになっていたが、ニコル教授は気にとめなかった。
「このサングラスがあれば心配ない」

会場付近では、チバニアン興味の関係者よりも若い女の子たちでいっぱいだった。各紙の朝刊に白いスーツに蝶ネクタイ姿のニコル教授の写真が載ったからだ。意図した衣装ではなかったが、カーネルサンダース姿のニコル教授は女の子たちの心を捉えた。
彼女たちに手を振ろうとニコル教授は車の窓を下げると、流行色の赤いハイヒールを履いた女の子たちが大勢駆け寄ってきた。ニコル教授は目が眩んだ。心臓は破裂しそうに高鳴る。体中を熱い血が暴れまくる。若いころに置いてきた爆発しそうな感覚がニコル教授を襲う。隣に座っている秘書が、高揚したニコル教授に気づいて慌てて窓を上げた。
 我に戻ったニコル教授は彼女たちの中にダイブしたい気持ちをやっとのことで抑え、サングラスをかけ会場に入った。

 講演はサングラスのおかげで無事終了した。会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こる。総立ちになった観客に感動し、ニコル教授は思わずサングラスに手をかけ外そうとした。慌てて秘書がそばにつく。
「教授、会場を出て車に乗るまでは絶対にサングラスを外してはいけません」
 小声で念を押され、ニコル教授はうなづいた。
鳴りやまぬ拍手の中、手を振り壇上を降りようとすると司会の男性が
「ニコル教授、素晴らしい講演をありがとうございました!」
 と言いながら舞台のそでに合図を送る。
「主催者の地球電磁気・地球惑星圏学会から花束を贈呈したいと思います。皆様、もう一度盛大な拍手を!」
 司会者の言葉に合わせて、黒髪の美しい女性が大きな花束を抱えて歩いてくる。サングラス越しに黄色やピンクの鮮やかな花が見えた。ゆっくりと厳かに歩いてくる女性の足元には、真っ赤なハイヒールが見え……。
「え! な、なぜ!」
 ニコル教授は動揺した。赤い色は変色するはずなのに、なぜ青くならないのか。サングラスを外して確かめたかったが、ここを出るまではダメだ。ニコル教授の心臓は高鳴り、次第に意識が遠のいていく。
我を忘れたニコル教授は壇上から飛び降り、その女性めがけて見事なタックルを決める。我慢し続けていた欲望は爆発し、彼女の上で芋虫のようにもぞもぞし始めた。ニコル教授は会場中の冷たい視線を浴びる。ハッと気付いたときはもう遅かった。ついさっきまで割れるような拍手でいっぱいだった会場は、一瞬で水を打ったように静まりかえる。慌てて駆け寄る秘書と関係者たち。観客席で悲鳴を上げる女性、指をさしながら叫ぶ人、パンフレットが投げつけられ罵声が飛び交う。ニコル教授は関係者数人に抱えられるようにして舞台裏に消えていった。
その後、この一件は各紙を賑わしニコル教授は前にもまして注目の人となった。秘書のミッチェルはすぐに記者会見を開くことも考えたが、とりあえず事態が落ち着くまでニコル教授を都内の大学病院に緊急入院させることにした。

ニコル教授が買ったサングラスの使用説明書には、実はこう記されていた。
『赤い色は青い色に、青い色は赤い色に変色するサングラスです』

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