生きやす(にく)さ

スペインに来て、5ヶ月が経過した。昔に滞在した時間を含めると、もう累計1年以上になる。こんなに海外に住んでみることになるとは、5年前には全く思っていなかった。そしてパンデミックが始まった2年前には、またスペインに戻れるとは思っていなかった。

以前も秋から冬、春にかけて滞在した。その季節をなぞるように、ああ、この地の秋は、冬は、クリスマスはこんなものだった、そうそう、これだこれだ、と思いながら過ごしている。あたかもパンデミックなど全くなかったかのように、皆がかつてと変わらぬ暮らしをしているように見える。

ここからは完全に私の意見だが、私という人間が人生のひとときをスペインで過ごして気がついた、過ごしやすい点について自分勝手にお伝えしてみたい。あくまで日本での暮らしと比べたときの気付きで、スペインといってもその片田舎での滞在での気付きだ。

1 見た目についてとやかく言われることがない

日本にいた時には、見た目についてあーだこーだと(修正するように)指摘されることが多かったな、と振り返ることがある。

私はピアスを開けているが、アラサーがピアスを開けていると、いい歳なのだからやめたらどうか、というようなことを言われることがあった。それは世間的には私が男とされているということも関係しているかもしれない。一般論でしかないが、女性に比べて男性の方が、確かにアクセサリーを着用しないかもしれない。

そんな一般論に私を当てはめるんじゃねえ!!!

と固執し続けてきたのだが、スペインに来てからというもの、褒められはしても非難されたことは一度もない。

髪の毛も、服装もそうだ。男なんだから短髪でスッキリさせなさいと、ムーアの法則を知ってか知らずか、悪びれもせず押し付けられること、好きな服を着ていたら似合わないから着るのをやめたらどうかと言われること、どちらも身に覚えがある。身に覚えどころか私にその言葉を投げた人の顔と名前ははっきりバッチリ憶えている。忘れたとは言わせない。

こうした、「世間はこうだからあなたもそれに従いなさい」ということに対するストレスは、ほとんどなくなった。どんなに押し付けられようが、私はピアスも服も髪型も自分の好きなようにしか扱ってこなかったが、いちいち指摘されなくなったのはとても快適だ。

体型だってそうだ。こう言ってはなんだけれども、スペインの人は、私の印象ではあるが、結構太っている人が多い。日本ではあまり見ないくらい太っているひともいて、最初はびっくりした。
何にびっくりしたのかというと、別にそれが何かの価値判断の基準になっていないように思われたことだ。なぜか、日本では、痩せていた方がいいとされる空気があったような気がする。太っていることがよくないことだとされていたような気がする。私が14歳の頃は、その得体の知れない規範を盲信していたのかなんなのか、摂食障害になってしまったことがある。あくまで私の場合だ。

確かに健康のためには、ある程度は摂生した方がいいのは確かだが、それはあくまで「ある程度」なのだ。過度に痩せている必要はない。ましてや、世間から何か言われるからというのがその理由になることはない。

どんな体型でも、年齢でも、服も好きなものを着ればいいし、アクセサリーも好きに使えばいい。そんな雰囲気がある。
かくいう私も、スペインに来てから少し太った気がする。それはこの村の友人に指摘された。「ちょっと太った?」なんて言われると、なんだか嫌な気がしていた私だったが、「ちょっと太ったな、今の方がいいぞ、村に着いたばかりの時は痩せ過ぎていた」というような言葉を投げかけられた。
期せずして、ちょっとだけ嬉しかった。私の顔が丸くなろうとどうなろうと、それこそ私の勝手だが、悪いことでもなければ良いと言ってくれる人がいるのは嬉しかったのだ。

実態もわからないまま、世間でよしとされることを追い求めても仕方ないのかも知れない、そう思わされた。

2 年齢

これはほとんど私自身の問題(問題として深く捉え過ぎている)だが、年齢と共にこうあるべきだ、というような強迫観念からは解放されている(気になっているだけ、一時滞在だから)と感じる。
30にもなるんだから定職につきなさい、家庭を持ってもいいのではないか、そういうことに対する無言の圧力はスペインでは感じない。
これは社会問題であるともされているのだが、スペインは世界経済危機以降、若者の失業、晩婚化、パラサイト・シングルが問題とされることがある。確かに、私が住んでいる小さな村でも定職についている若者は少ないし、30歳を過ぎても両親と暮らしているという人も多い。

でも、だからなんだっていうんだ。というのが私の意見だ。パラサイトシングルという言葉、それ自体は社会問題として扱われるものかもしれない。しかし、親と一緒に暮らせるというのは、家族を大切にするこの村の人たちのことだから、幸せなことなのかもしれない。もちろん事情は家庭によるが、一意に悪いという状態ではない。逆に、私には羨ましいまである。私は博士課程とはいえまだ学生で就職もしていないから、実家に帰るとそれだけで近所の目が気になる。あそこの家の子供は30にもなるのに仕事もせずに、とお題目を唱えられる。もしもここに実家があれば、それぞれのペースでやっているんだから、それ以上のことではなかったかもしれない。

私はなにか、焦っていたのかもしれない。30歳を目前にして、未だ学生ということに対しては常々引け目を感じて生きてきた。まだ学生をしているのか、仕事をしていないのか、そんな言葉は毎日のシャワーほど浴びてきた。自分もその年齢に見合う、つまり、世間一般と同じように生きた方がいいのではないかと思っていた。
それでも、人それぞれのペースというものがあるというのも確かだ。皆が足並みを揃えて、ある年齢には就職して、結婚して、そういうのも悪くはない。悪くはないが、あくまで一般論、多数派の傾向であるというだけのことだ。自分がそれに乗っていけるかどうかも考えていいし、その波に乗れない人間がいた方が、きっと世の中おもしろい。私のようにお金にもならない、何が社会の役に立つのかわからない学問をするのに四苦八苦して、思考を練る人がいてもいいのではないだろうか。

そうやって自分に言い聞かせなければ、少なくともパンデミックの2年半以上を博士課程という身分で過ごした私は、路頭に迷うか浮世に見切りをつけていたことだろう。
それでも、スペインでの滞在は、自分のペース作りの大切さを思い出させてくれたような気がする。

まあ、こう言っては身も蓋もないが、人に危害を加えるわけでもないのなら、他人の嗜好と思考は好きにさせていいんじゃないだろうかってことである。

***

ここまで読んでいただいた方の中には、なんだ、結局は「海外いいぞ」っていう移住やら留学やらの売り文句かよ!と思う方もいるかもしれない。
そう読まれた方には、そう理解していただいて構わない。所詮は文章であり、私の思想を全て運べる媒体だとも考えていないのだから、適当に流してもらってもいい。

でも、この記事を書いている自分も、やっぱり日本が恋しいと思うこともある。これは一見、矛盾している。でも、矛盾のように見えても、それほど大きな食い違いではない。

日本、もしくは母国にいることの最大の利点は、「慣れている」ということに尽きる。言語もわかるし(これが一番大きいかもしれない)、社会がどう回っているのか、特定の手続きをするにはどこに行けばいいのか、病院はどうやって行けばいいのか、そうしたことについて勝手がわかるから、ラクなのだ。
今回ここで指摘したのは、そうしたラクさの中に潜む、暗黙の了解としての圧力だった。

スペインが最高というわけではない。私も滞在にはいろんな課題があるし、社会の仕組みについて完全に理解してもいないし、研究の都合上滞在しているということを差し引いても、正直なところラクだとは思わない。中途半端なのだ。それでも、人と人の間に放り投げられた一人の人間としての生きやすさを、いくつか見つけたのである。

ふかふかのロッキングチェアがあれば、座るには快適かもしれない。でも、座り続けると腰を痛めることもある。そこから立ちあがれば疲れるものの、座っていたままでは見えていなかったものも見えるはずだ。

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