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友人における距離感が難しい今日この頃

友人の距離感ってまじまじ考えると難しい。特に、それぞれの人生に分岐が出てくると話せることが少なくなってくる。

自分の日常が誰かからしたら、羨ましいと感じるものになっているかもしれないし、逆に友人の話を聞いて羨ましいと思うこともある。

羨ましい程度であれば、さして問題ではないけれど、相手への気遣いを忘れて、知らぬところで傷付けてしまったり、親しさゆえの甘えから敬意を示さなかったりしてしまうかもしれない。

家族でも恋人でもない、なくてはならない大切な存在が友人だ。でも、友人同士におけるお互いが「心地よい」環境を作ることは実際とても難しい。

最近余計にそう感じるようになった。特に年齢に伴ったライブイベントの影響で。結婚とか出産とか、個人の選択によるものだけど、その選択をそもそもできるか、納得しているかは人によって違う。

誰かは結婚を敢えて選択しない。誰かは様々な事情で結婚したくてもできない。誰かは結婚しても子供を持ちたくない。誰かは子供を持ちたくても持てない。誰かは子供だけは持ちたいと思う。

いずれも結婚や出産に関わることは、センシティブでとてもプライベートなこと。様々な立場がある。

これは自分に対する戒めも兼ねて、定期的に考えることだ。親しき仲にも礼儀ありと言われるが、親しき仲こそ、なあなあな関係になってしまうため。

年齢を重ねるにつれて、正直愚痴も言いにくくなった。言いたくなくなった。もちろん言うときもあるけど、必死に考えて考えて、やっぱり納得できない!と思うときに言うようになった。だから悶々と考える時間が長くて、自分で辟易してしまう。

愚痴を聞くことも苦手になってしまった。特に共通の知人における当人がいない愚痴。昔はそういう考え方もあるんだな〜とよく聞いていたが、最近はだんだんと聞くのが辛くなってしまう。それは愚痴を聞くと愚痴を言われてる相手ではなくて、言っているその人の印象がどうしても下がってしまうから。

私に愚痴を言う前に、本人同士きちんと向き合って腹割って話した方がよほど健康的な人間関係を構築できると思う。と内心、心の片隅で感じてしまう自分が性格悪いなと思ってしまうのだ。つまり負の連鎖。何も良いことが生まれない。

不思議だ。中学生・高校生の時は、あんなに愚痴を言っていたのに。

大人になって、愚痴を言ったその先の可能性が見えるようになって、自分の印象を下げてしまうリスクを取ってまで、愚痴を言いたいとは思えなくなったのかもしれない。結局、私は他の人からよく思われたい、自分がいちばん可愛い人間なのだ。

でもみんな人はそんなもんだろうと思う。自分が可愛くてなんぼだ。自分で自分を愛せないと、周りに負荷をかけることになる。私ももちろん両親や夫含め、友人それぞれに負荷をかけていると思う。

でも負荷をかけられてもこの人だったら良い、そんな関係を続けていける、そこには多分ちょうど良い距離感を醸成する「気遣い」があるのだと思う。

この人の話を聞いていると辛いと感じる友人とは、おそらくこの気遣いの度合いや基準が合わない。きっと、お互いのことは嫌いじゃない。でもふとした気遣いのズレが生じると、大人ってすぐ距離を取れちゃうから疎遠になるものなんだなあと思った。

大人になってからの友人との距離感の取り方は、きっと今後も苦戦すると思う。でもまあ、やるしかない。noteに書くことで、「気遣いのズレ」と言う観点に気づけたので、今度も意識していこうと思う✌️

本日はここまで。

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