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地べたの多様性

大学では外国語と社会学・ジェンダー学を学んでいた。

私は中学・高校と海外で男女共同の寮生活をしていて、その中で男性と女性にそれぞれ振り分けられる「あるべき姿」に辟易してジェンダー学に興味を持った。

外国語に興味を持ったのは、もともと父親が外国人ということもあるけれども、言葉を知ることで知らない世界が目の前に広がることが楽しかったからだ。

でも、大学で言葉と文化と社会学と、諸々学ぶごとに、「私は、中学・高校よりも、もっと前に、日本で身近に異文化に触れたことがあるな」ということに気づいた。

小学生の頃まで遡る話だ。
※人物名は偽名を使う。

私のクラスには3人外国にルーツを持つ子がいた。1人はオーストリアとミックスのアンナちゃん。もう1人はフィリピンとミックスのリチャードくん。そして韓国とミックスの私だ。

3人ともミックスだったけど、明らかにクラスにまぎれるように溶け込んでいるのは私だけだった。

その要因はふたつ。一つ目、私が見た目がいちばん日本人らしかったからだ。他の2人は、外国のルーツが私よりも見た目に色濃く反映されていた。

二つ目。韓国はオーストリアとフィリピンと比べると、日本に文化圏が近いため、際立つ異文化さが言動・行動に無かったためだ。

未だに2人に対して、それぞれ思い出すことがある。

リチャードくんは、小学生にしては珍しく、かなり頻繁に遅刻を繰り返していた。10時に登校することが多く、当時の私は、なんて不真面目なんだろうと思っていた。

話を聞いてみると、母親の仕事終わりが遅いため、その時間まで待ってご飯を食べていると言う。だから寝ることも遅く、起きられないんだと。

その話を聞いて、確かにご飯は食べたいだろうな、と子供ながらに思い、勝手に自己完結して納得していた気がする。今ならもう少し想像を張り巡らすことができる。

これはあくまでも私の予想・憶測に過ぎないが、リチャードくんのお母さんはフィリピンパブで働いていたのではないだろうか。だから仕事終わりが遅く子供たちはそれを待っていたんじゃないだろうか。

思えばリチャード君は、その年の子供にしては、少し肥満気味で、常に目元にクマがあった。夜遅い時間にご飯を食べることの結果が、彼に現れていたんじゃないか。

本人にはっきり聞いたことがないから、これらはあくまで推測の域を出ない。ただ、こういった想像を膨らませて、もしかしたら彼には私では想像できない別の環境があるのかもと冷静になることは大切と思うのだ。

アンナちゃんは、いつもどこか空想に耽っているような女の子だった。端的に言うと、不思議ちゃんタイプ。話していてもどこかピントが合わないような感じがして、私は彼女とあまり会話らしい会話をした記憶がない。

不思議ちゃん極まれりと思ったのが卒業文集だった。小学校での思い出や将来の夢を書く人が多い中で、彼女の文集は異彩を放っていた。

彼女は「自分と富士山の思い出」について書いていた。文集の中では、富士山が彼女の良き相棒であり、辛い時も見守ってくれている友人だった。

彼女は修学旅行前に怪我をしてしまい、同級生と共に思い出作りに参加することができなかった。しかし、そのような辛い環境下においても、富士山は彼女を励ましてくれていたらしい。

小学生の頃の私はびっくりしたものだ。ええ!変なの!と遠慮がない失礼な感想を抱いていたと思う。しかし、中高生時代、授業で触れたアンネの日記を読んでから考えを改めた記憶がある。

アンネの日記は、アンナちゃんが富士山に宛てて書いた文章と通ずる雰囲気がある。まず、人ではない存在を擬人化し、信頼関係を構築しているところ。そして、揺るぎない自分の世界と対話しているところだ。

彼女は、ほかの人に揶揄されても、1人でいても、寂しそうではなかった。小学生の時、どこか違う、変だ、と思っていたその姿勢は、大人になった今考えると、とても芯がある現れだったのかもしれないと思う。

彼女と話していてピントが合わないと感じたのは、お互いが共有できる世界観や視野が、とても狭く限られたものだったからでは、とも思うのだ。反省も含めて。

改めて、身近なところに得てして、違う世界は広がっているのだな。ブレイディみかこさんが言う地べたの社会に、考えるべきことが本当にたくさんあると思う。おそらくこの感覚は今後もより増えていくのだろう。

ここ最近、「多様性」という言葉がメディアに溢れている気がする。

それがたとえ、建前上だったとしても、「ちょっとカッコいい」というアクセサリー感覚のお飾りだったとしても、私は「世の中は多様である」という意識が浸透すること自体とても良いことだと思っている。

でも、そんなにとやかく言わなくったって、もう身近に既に触れているんだから、その差異を際立たせてそんなにアレコレ騒がなくてもいいんじゃない?とたまに疲れることがある。

もちろん、マイノリティや自分とは異なる文化/性質を持つ人々に対する差別・偏見・無関心・無配慮な姿勢は自分自身の戒めにおいても改めるべきだ。

でも、思う。多様性というのは、自分自身で学び取っていくもので、押し付けられたり、強制するものではない。押し付けるように何かを伝えてくる人は、それこそ多様性主義者で、差別的だ、とも思っちゃったりする。

難しいなあ。でもきっといちばん大切なのは、誰に対しても相手の立場に立って、思いやりの心を持つことなんだろうな。仕事する時も、新しい交友関係を持つ時も、何気ない仲の良さを維持していく時も、これは案外難しいこと。ずっと意識していこう自分。本日はここまで!

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