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夢想落日

一日の終わりは少し希望に満ちているべきで、特に夕闇をを感じられない生活は好ましくない。生き物が、昼夜の別のない環境の中に置かれることは酷なことだ。私はいつの頃からか覚えていないが、朝日に希望を感じることがない。一日のうち、気持ちに余裕ができてくるのは夕刻からで、夕陽に横顔なり、建物なり、窓辺が、影とは対照的に照らし出されるコントラストを、とても美しいと思い見ていた。

社会人になり、暗い建物の中で仕事をして、夕を感じないままひたすら働き続けた結果、気が付いた時には病院のベッドで寝ていた。真昼の窓の外の景色が綺麗で、その時だけは心洗われる気分になったことを覚えている。世界はこんなに美しかったのだ。一方で疑問が湧いた。どうして私はこんなに美しい世界を、美しいと捉えることができなくなってしまったのだろうかと。
働くまでは風景画を描いていた。ずっとずっと長い間、自分なりに写実でも抽象でもない風景画を描いていた。瞳に映る世界と脳内に僅かに残るまだ知らない世界への憧憬をパレットで混ぜて、拙いながらも瑞々しい世界を描くことに、うっとりとしていた。私にとって、そこに現れる光景こそが逃げ場だったし、それは私の心の中では紛れもない現実だった。だから私は絵を描くことで、「この世界に生きる確かさ」を得ようとしていたのだ。
絵だけでなく創作とはそういうものではないのか。可愛いキャラクターのイラストも、強そうな筆致の強面の人物であっても、それは創作者の理想であり、心の安寧の地であるもので、それはも侵すことのできない物、場所だ。だから私は未だに人が絵を描いているのを見るのが好きだし、誰かの創作物を見るのが好きで、それ故にできるだけ物づくりをする人と一緒に居たいと思っている。仕事に取り組む間、創作をする場所も時間も奪われ、失われてきたから、私は何とかしてそれを確保しようと思って行動したし、周囲に共感してくれる人がいれば、その場を提供しようと思っている。
私は人づきあいが下手だから、この気持ちに共感してくれない人とは基本的に関わりたくない。話が合わないのだ。人づきあいが上手いと言われることがあるけれど、まったくそんなことはなくて、人と嫌々会っている場面ばかりが思い浮かぶ。共通言語を使用しているのに理解が全く異なる中での交流には体温が乗らない。相手に誤解された場合には、疑いや攻撃性を持たせてしまうから、できるだけ避けたい。だが、避けられないことばかりが続き、それが生きることだと知ってしまうと、この世界に何ら希望を抱くことができず、どこにいても、誰といても孤独であるということを実感する。孤立して、自分の輪郭だけが穴のように残る世界では、その穴の形こそが私の存在を示す。
そうやって、ずっと目立たずに没個性になっていって良いのだろうか。人は人とコミュニケーションを取る生き物だ。なのに、こんなことで形を確認しようとすることは間違っている。
日々を消耗して過ごすなかで、私と同質の絵描きや文字書きに会うと、彼ら彼女らは綿のように私の心を包みながら創作物や好感といった生命維持のためのエネルギーを与えてくれる。その光はぎらぎらとしておらず、夕陽のように私を暖かく照らす。やがて失われる彼ら彼女らの光は優しい。功名心でも金目的でもなく、ただ自分だけのエネルギーを消費して光るそれはとても美しい。人は落日である。いつか必ず消えてしまうから、惜しむ。大事にする。お互いにそうであったらいい。

病床、ベッドで横たわる私の目に映るあまりにも美しい世界が現実だという事実。この見た目美しい現実は、人をこれほどまでに弱らせて、潰すということを明示していた。あのとき、私はこの世界にとても腹を立てていた。多分私と似たような誰かも、同じくしてどこかから強制的に病室送りになったり、起き上がれないまま、世界のどこかで、中で何をする気もなくただ生きていることを嘆く、あるいは諦念し、または愛している筈で、私はそういう人こそ、生きることができる世界を作ろうと思った。

自分のしていること。一日のうち、このことを考えることができる心の余裕ができてくるのは、昼間の仕事の終わりが見えてくる夕ぐらいの刻限になる。私は、
世界が夕闇に染まる様を体感し、自身もその中に居たいがために、今日も徹夜して働くことに決めた。

現実には何の希望もないことを頭の隅で認めながら、遠くから聞こえる学校帰りの子供立ちの声を聞く。私も子供だった頃があった。あなたも。だから私は、彼ら彼女らをゆるやかに照らして消えて行ければと思う。私の終わりは、少し希望に満ちていたい。

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